06
耳元を風が切っていくのが聞こえる。
息を切らせて走る私の隣でやはり成歩堂も必死で走っていた。
「足が速いな、君の娘は」
「どうも」
成歩堂はちらっと私を見て、また前方のみぬきに目を戻した。
「特に逃げ足はね。それが自慢でね」
速いというよりは逃げるのがうまいと言った方が正しいのかもしれない。彼女は何度も切り返しを混ぜたり角を曲がったりして、体の重い私たちを引き離していた。
彼女は電灯も少ない細い路地を、縫うようにしてすいすいと進んでいった。
「どっち行った?」
「あっちから音がする」
成歩堂は私の後ろから道を覗き込んだ。
「・・・いないよ」
注意深くそちらの道を見る。街灯も家の明かりも途切れてちょうど死角になっている。
そのときゴミ箱の倒れる音と猫の鳴き声がした。
「塀の上だ!」
みぬきは民家のブロック塀の上を器用に走ると、三メートルほど先で塀の中に飛び降りた。
「・・・知恵が回る子だ」
「それも自慢でね」
大げさに回り道をして民家の玄関に回ると、みぬきはすでに随分先を走っていた。等間隔に置かれた街灯のおかげで、姿が現れたり消えたりしている。後ろから追いかける私たちが彼女に追いつきそうになると、みぬきはまた器用に姿をくらましてしまう。そんなことを何度か繰り返した。
やがて路地から車道に出た。夜間になって点滅している信号を無視して、みぬきは横断歩道の向こうに走り去った。
「車道に出るときは一度止まれって言ってるのに!」
「そんなことを言ってもしようがないだろう」
そう言って私たちも車道を駆け抜けた。背後で苛立ったようなクラクションが鳴った。
だんだんふたりとも息が上がってきた。少しずつ間が開いていっているように見える。
「・・・勝てないな。現役の小学生には」
「そーだね・・・。ちょっと待って」
気がつくと成歩堂は後ろで電信柱にもたれていた。私は立ち止まって彼が息を整えるのを待った。
「・・・小学生の頃はもっと走れただろう、君は」
「・・・そうだったかな」
「そうだった」
成歩堂は重たそうに姿勢を持ち上げて、また走り出した。私はついていくように後ろを走った。
休んだせいでまたかなり引き離されていた。二個目の角を曲がってようやくみぬきの姿を見つけた。みぬきは待ちかまえていたのか、立ち止まってこちらに微笑みながら手を振った。そして身を翻すと脇にあった公園に駆け込んだ。
成歩堂はカンに障ったのか大きく息を吸ってみぬきを呼ぼうとした。
「・・・み」「待て」
私はそれを手で制した。
「こんな時間だ。通報されたいか?」
成歩堂は一瞬泣き笑いのような顔をしてまた前を向いた。
みぬきの逃げ込んだ公園は小さく、何メートルか先ですぐまた出口になっていた。
前を走るみぬきを見てたまらなくなったのか、成歩堂は「みぬき」とこぼした。それを聞いてみぬきは身をひねって「帰らない!」と叫び、目の前にあったすべり台の上に駆け上がった。
この公園の街灯はすべり台の横に置かれたひとつだけで、みぬきはそのすべり台のてっぺんで明かりに照らされていた。
私たちは立ち止まってしばらく荒い息を繰り返していたが、やがて成歩堂は背筋をのばしてみぬきに向き直った。
「みぬき、駄目だよ。帰らなくちゃ」
「いや!」
成歩堂は口を固く結んで、複雑そうな表情をした。それを見て私は心配になった。みぬきは本当に、成歩堂が嫌で家出をしてきたのかもしれない。
私は頭上のみぬきの顔を見た。彼女は笑っていた。
「帰らない」
みぬきはもう一度噛んで含めるような声で言った。
「だってパパが、オバケに取りつかれてるんだもの」
「な・・・」
成歩堂は目を丸くして私を見た。
「そ、そういう話だったの?」
「らしいな」
成歩堂はみぬきの方を向いて声を荒げた。
「なんで・・・」
「言ったでしょ!ウソをつくと、オバケに取りつかれちゃうの!」
「いつぼくがウソなんかついたって言うんだ」
「ああら」
みぬきは胸を張った。そして大きく息を吸って声を張り上げた。
「泣いてたのは、どこの誰だったのかなあ」
「げ」
成歩堂はうめいて後ろに下がった。そしてそれきり硬直しているのが後ろからでもわかった。
「本当のこと言わないと、オバケが出てかないよ、パパ」
「う・・・」
私は何のことかもわからず黙ってふたりのやりとりを眺めていた。とにかく、今はみぬきが優勢らしいということだけはわかった。
「言わなきゃみぬきが言うけど」「ま、待って!それは・・・ほら」
成歩堂は慌てて腕を振ってみぬきを止めた。それから私をちらりと見て、またみぬきを見た。
「始めっから、これが目当て・・・だったわけだ。怪談話の続きをやろうって・・・」
「みぬきをダシにしてくれたお礼」
成歩堂はのろのろと私の方を向いた。ちょうど逆光になって表情はうまく見えなかったが、下を向いて何やら逡巡しているのがわかった。それにしびれを切らしたみぬきの、「パパ!」という声でみぬきはようやく顔を上げた。
「あのさ・・・アレ、ウソだったんだ」
アレというのが何か、私には見当がつかなかった。成歩堂はやはり言い難そうにせわしなく体をよじった。声にならない呻きが何度か聞こえたが、それが本当に言葉になったのはそれからたっぷり経ってからだった。成歩堂は、熱に浮かされたようなかすれた声でつぶやいた。
「会いたかったよ」
それは小さな声だったが、私の耳にははっきりと聞こえた。
私は、まだ視線を落としたままの成歩堂を見て、それから頭上のみぬきを見た。
そうか、と私は思った。ウソだったのか。
私はそのウソに長いこと付き合わされてきたわけだが、不思議と腹は立たなかった。
私が彼を見ると、成歩堂はヤケになったかのように大声で言い直した。
「・・・会いたかったんだよ。本当は。・・・・これでいい?」成歩堂は背後のみぬきに伺いを立てた。
みぬきはすべり台の上で憤慨していた。「これでいい、は余計でしょ!」
成歩堂は背後を向いたままこちらを見なかった。仕方がないので、私は表情ではなく声に出して言った。
「私も会いたかった」
それを聞くと、成歩堂は背を向けたままその場にしゃがみ込んでしまった。
またすべり台の上のみぬきを見ると目が合った。それで、ふたりで声もなく笑った。
end
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