夜の陰謀



01

 「あれ・・・」
 声に出して注意を引いてみる。ついでに振り向いて探す素振りを見せながら、セリフの効果を確かめる。
 肝心の相手は振り向いてもいない。
 す、と息を吸う。
 「あれー?」
 今度はより大きな声で。
 そこでようやくガサガサと新聞を畳む音がした。
 「どうしたの真宵ちゃん」
 それでも声の主―つまりなるほど君だ―は立ち上がってくる気配すらない。
 「今朝さ、あたしの方が早かったよね。事務所に来るの」
 渋々とあたしの方からなるほどくんが座り込んだソファへ歩いていく。どうでもいいけど下から埃がのぞいている。掃除しなきゃなあ。
 「そうだよ」
 「なるほどくんより早く来てしまって鍵が開いてなかった」
 「だから、そうだって」
 なるほどくんはイライラと丸めた新聞で肩を叩いた。
 「しょうがなくあたしは植木鉢の下から鍵を出しました、はい」
 植木鉢を持ち上げるジェスチャーをすると、なるほどくんが眉をつり上げた。
 「ちょっと・・・何の話?」
 あたしはきゅっと目をつり上げ睨み付ける。
 「話にはね、順序ってものがあるんだよ!・・・で、ドアを開けました、はい」
 今度は見えないドアを開ける。
 成歩堂君は、まるで電車で隣り合わせた人物が遠い宇宙の緑色の小人について語りだしたような眼であたしのことを見返した。失礼な。
 「中に入って、コンビニの袋をテーブルに置きました、はい」
 見えない袋を置いて見えない汗を袖で拭う。
 なるほどくんは三歩くらい下がって一挙一動を眺めていた。
 「そのままお湯を沸かしたでしょ、はい」
 「・・・・・・珍しいね。いつも僕がお湯を沸かすまでなんにもしてくれないのに」
 「・・・今日ぐらいはサービスしてもいいかな・・・って」
 「え、なに?」
 「べつに。なんでも」
 「な、何だよ気になるじゃないか」
 しつこいなあ、と思うがないがしろにするわけにもいかない。
 「ゆで卵、作ろうと思って」
 「嘘でしょ」
 「まあね」
 「・・・・・・」
 なるほどくんはなんとも脱力した顔で悩みこんでしまった。
 「・・・・・・それはいいけど換気扇壊れてなかった?」
 会話を切り替えることにしたようだ。
 「ちゃんと換気はしたよ。二酸化炭素中毒になる気はないからね」
 「・・・おかしいだろ。一酸化炭素だろ、普通」
 「おかしいのはそっちでしょ?二酸化炭素は一酸化炭素の倍だよ!どうして二酸化炭素が負けるって言うの?」
 「・・・わかった、真宵ちゃん」
 「やっとわかってくれた?」
 「”二酸化炭素中毒で死亡”ていう記事を見つけてきたらぼくの負けでいいよ」
 「・・・話を戻そうか」
 「それでいいんならいいけど」
 何かをあきらめた顔をしたなるほどくんに先を促された。
 「急須洗って」
 「うん」
 「お茶入れて」
 「うん」
 「お菓子を食べました」
 「僕が来たのがそのくらいかな」
 あたしはぱっとコブシを開いてなるほど君に向き直った。
 「そのあとなんだけど」
 「な、なんだよ」
 突然本題に入られてうろたえたようだ。
 「鍵がみつかんなくなっちゃった」

 



02

 お日様は仕事を終えて、おまけに近隣のビルからも人が帰っていってしまった時刻。つまり夜。眠ったように静かな街のなかで、成歩堂法律事務所のふたりだけが取り残されていた。
 すでに事務所はひっくり返せるだけのものをすべてひっくり返し、出せるだけのものはすべて引き出しから出され、早い話が事務所荒らしにあったような様相だった。
 積み上げられた本の間から不機嫌な声が響いてくる。
 「どーすんだよ、帰れないじゃないか」
 声の主は、月に一度も見ない棚の中身をすべて床の上へ積み上げたなるほどくんだ。
 「とうとう見つからなかったね」
 あたしといえば、お歳暮の箱の中で畳まれたままになっていたタオルをあねさんかむりにした姿で呟いた。
 ふう、となるほどくんはため息をついて部屋を見回した。
 「ゴミ箱は」
 「もー、最初に見たじゃない。そこのヤツと、給湯室、机の下、ソファ横、どこにも入ってないよ」
 「なんかまだなかったっけ、どこかに・・・」
 「えー?ないよ、多分」
 「せめてちょっとは考えてから言ってくれよ・・・」
 眉間にしわを寄せて、また考え込む。
 「えーと・・・じゃあ、クッションの下は?ソファの」
 あたしはふるふると首を振る。
 「ぬかりはないよ。残念ながら」
 「ソファの下は?」
 ・・・ソファの下?
 「えっ?あっ、み、見た見た!ないない、全然」
 「な、なんだよそのリアクション。ちゃんと見たの?」
 なるほどくんがソファの方へ歩き出すので、あたしは慌てて先回りしてそばにあった定規で下をつついた。埃が舞い上がるだけで何も出てこない。
 「ほら、無い」
 「ふうん・・・」
 なるほどくんは、面食らった様子で立ち止まってから、所在なさ気に後ろにあったごみ箱をあさりだした。
 「妙に似合うね、なるほどくん」
 「失礼だな」
 とは言え目的のものが見つかる様子もなく、しばらく無言のままプラスチック製のゴミ箱と格闘していた。その姿を横目に、あたしは積み上げてあった埃まみれのファイルを仕舞うために両手で抱え上げた。
 「・・・・・・真宵ちゃん」
 「なに?」
 「印鑑、中に落ちてたんだけど」
 振り向くと、なるほどくんがこっちを見ていた。その眼には不信が満ちている。
 「本当に探したの、ここ」
 「・・・だって、印鑑探してるわけじゃないじゃない」
 愕然とした顔でこちらを眺めてくるなるほどくんの視線を振り切って、あたしは「さて」とひとりごちた。
 「見つからないねえ」
 「・・・本当に見つける気があったのか疑わしいところだけどね・・・」
 「なるほど君、そうやって人を信じてあげられないのはよくないことだと思うな」
 あと、そうやって暗い目つきで人を見るのもね。
 あたしはポーズをつけて考え込む。
 「こうなったらあたしが泊まり込むか、なるほど君が泊まり込むかしかないよね。管理人さんももう帰っちゃてるでしょ」
 そのままなるほどくんと目が合う。が、それもそう長い間ではなかった。
 ふう、と深いため息をついたのは、またもやなるほど君だった。
 「真宵ちゃん泊まらせるわけにもいかないからね」
 「悪いね、ありがと」
 なるほどくんは、かがんで「仕方ないな」と言うとソファの上に置いてあったファイルの山を抱え上げた。
 彼はしばらく周りを片付けていたが、そのまま奥に引っ込んで仮眠・泊まり込み用の毛布を探しに行った。実のところ仕事があれば泊まり込むことだってないではないのだし、支度は手慣れている。どさどさと荷物をよける音からするに、またずいぶん奥へしまい込んで苦労しているようだ。
 あたしはそれを確認し、足音を消しながら窓へ近よった。まだ閉じられていないブラインドカーテンの隙間から街を見下ろす。青白い街灯に照らされて目的の人物が姿を現したのを見て、ジャっとブラインドを閉めた。
 これで支度は整った。

 



03

 「おやすみなさーい」
 寝床代わりのソファの周りを片付けているなるほどくんに手を振る。事務所はまるで片づいてなかったが、真面目に取りかかっていては朝になってしまう。この世は妥協で回っている。
 「おやすみ・・・気をつけてね」
 なるほどくんも投げやりにだが手を振った。
 あたしはドアを閉めると、いっきに表まで駆けた。
 人気のない道路は建物の中より少し肌寒い。当然ひどく静かで、あたしの下駄の音だけががんがん響く。
 すると、薄暗い通りの真ん中にぽつんと黒い影が浮かんだ。走りながらその人影に合図すると、近づいてきた相手の顔が街路灯に照らし出された。あたしの首尾を聞きたがっているようだ。
 そのまま簡単な挨拶をすませると、相手が「どうだった」と急かすように言った。それを聞いてあたしはたもとをごそごそまさぐった。わざともたついて、相手の気を持たせる。それからすっと右手を抜き、握り拳の内側を相手に向けて演出っぽく手を開いた。
 手のなかには鍵が一本のっていた。
 それを目に入れると人影はにんまりと微笑み、「さすがだ」とつぶやいた。それを見て、あたしはもう一度鍵を元通り仕舞いなおす。
 あたしは小さくふう、とため息をついて目の前の男を見た。
 「・・・・・・に、してもやることが陰険ですよ、御剣検事」
 「ム・・・」
 御剣検事は軽くたじろいだが、身を起こして少し眼を細める。
 「しかし・・・・・・私がされたことを思うとだな・・・」
 「ま、アレもひどかったですけどね」
 ”アレ”というのはこういうわけだ。
 ある日、なるほどくんが御剣検事の急ぎの書類の入った封筒を事務所に預かった。しかし、なるほどくんはそんなことすっかり忘れて御剣検事が取りに来る前に施錠・帰宅してしまった――という身の毛もよだつ恐ろしい事件のことである。
 この事件のおかげで、御剣検事は夜を徹して検事局で書類をもう一部作らされる羽目に陥ったのだった――そうである。おまけにこの事件は偉く間が悪く、そのあと一週間ほど二人は会えずじまい、なるほどくんは御剣検事に何の謝罪もしないまま今日に至っているのだった。
 「でも、ほんと陰険ですよ。しかえしなんて」
 そして要するに、御剣検事はこの件を報復によって決着をつけようというのである。それを聞かされた、ニュースが日々伝えてくるイスラエルの報復合戦が頭をよぎった。
 そして、そのときあたしは思った。こりゃ泥沼になる、と。
 そんなわけであたしは、勝手にこの件に便乗することを決意し、こうして鍵を盗み出してきた次第だった。
 「・・・・・・では、戻って成歩堂にその鍵を返してくるか?」
 御剣検事は、何の根拠があるのか強気な態度である。それを見てあたしは腕を組む。
 「うーん、でも、そっちの方が面白いかも知れないですよね」
 にわかに御剣検事の顔が曇る。
 「まあ、でもほら、今返してあげたって、なるほどくんはご飯もおごってくれないでしょうからね」
 それを聞いて、御剣検事は軽く肩を落とした。
 「・・・何が食べたいのかね」
 「えー、おごってくれるんですか?悪いですよ。・・・じゃ、ステーキ」
 すると御剣検事は軽く笑って前を歩きだした。さすが、こういうところが誰かさんとの器の違いであろう。
 「明日の朝は、何時ぐらいに行ったらいいのだろうな」
 「ええと、まあ7時には起きてると思いますよ」
 「それぐらいだったら私の出勤にも間に合う。・・・7時だな」
 このいたずら・・・もとい報復のキモは、起き抜けのなるほどくんに対するドッキリである。すべては弁護士書類紛失事件を引き起こした人物への意趣返しというか、ハンムラピ法典だったことが彼に明かされるのである。
 「では、7時に」
 「ああ、7時だ」
 お互い、眼で頷き合う。
 それから、あたしの心はこれから出会うであろうステーキの元へと飛んでいった・・・はずだった。
 バタンッ・・・・・・ガンガンガンガン
 近所の迷惑も顧みず(といっても隣近所はオフィスビルばかりでこの時間すっかり無人なのだが)何かが階段をものすごい勢いで駆け下りてくる。
 呆気にとられる間もなく目の前に現れたのはなるほどくんだった。それを見て御剣検事が二三歩後ろへ下がる。
 「真宵ちゃん、まだ居たの!?」
 「い、いちゃ悪いって言うの!?」
 「じゃあ、僕は帰るから!あとよろしく」
 そうして走って逃げようとするなるほどくんのエリを慌てて掴む。
 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ、何なの!」
 しかし、なるほどくんは私の後ろを見てぴたりと止まった。
 「御剣だ」
 「そうだよ、御剣検事・・・ってわぁぁ!?」
 いきなりなるほどくんが歩き出したのであたしは前につんのめってしまった。
 「何してんの・・・・・・こんなところで、こんな時間、真宵ちゃんなんかと」
 当然、あたしたち二人に戦慄が走った。背筋が冷たい。
 「そ、そこで会ったんだよ。いま。た、たまたま。たまたま」
 「・・・・・・そういうことだ」
 なんでもない、というポーズをしようとなるほどくんのエリから手を離した。その瞬間。
 粉塵を巻き上げなるほどくんが駆け出した。
 「コラぁっ」
 遠くで「おやすみー」と手を振っている。どうしてくれようか。
 と、私の後ろで事の成り行きを見ていた御剣検事が、突然駆け出してなるほどくんを追いかけた。それも、惚れ惚れするようなフォームで。
 御剣検事は、目標がひるんでいる隙に颯爽と近づき、そのすそを掴んでつかまえた。あたしはその鮮やかさにしばし呆気にとられていた。人間誰が何をするかわからないものである。これもまた報復精神であろうか。
それでもなるほどくんはしばらくじたばたしていたが、御剣検事に後ろから羽交い締めにされる段になってようやく大人しくなった。
 「もー」
 ずいぶん遅れて、うしろから駆けて行くあたしを二人が振り向いた。
 「いい歳してこんな時間になにしてるの。見てるこっちの方が恥ずかしいよ・・・」
 そこでいきなりキッと睨まれた。
 「だれが泊まるか、あんなとこに!」
 ものすごい剣幕だ。
 「あ、あんなとこって・・・・」
 「君の事務所だろうが」
 言いながら御剣検事はなるほどくんから手を離した。するとなるほどくんは足下をふらつかせて、そのまま地面に座り込んでしまった。あたしは御剣検事と顔を見合わせる。
 「・・・何があったんだ?」
 「うぅ・・・」
 「何うなってるの」
 すると、今度は今にも泣きそうな目でこちらを見上げてきた。
 「なにか居るんだよ、あそこ!絶対」
 「何か・・・って?」
 「泥棒とか・・・」
 再び御剣検事と顔を見合わせる。そのまま二人分の返事が重なった。
 「まさか」
 なにせ、入り口は今まであたし達のいた場所を通らなければ入れないのだ。そんな人物はおろか気配もない。窓もこの道路に面している。猫やネズミであるまいし、人が入れるわけがない・・・。
 「それに、そういうときのためになるほどくんが泊まってるんじゃない」
 「外に出てから通報しようと思ったんだよ・・・」
 まあたしかに、下手に相まみえて返り討ちなんてのは面白くない。今のなるほどくんの慌てっぷりではどこまで本気なのかよく分からないけど。
 「間違いないって、真宵ちゃん出ていったあとだってのに、湯飲みが下に落ちて割れる音がしたんだって!」
 「そんな馬鹿な」
 「人が入ったとは思えないんだけど」
 「じゃあ何だって言うんだよ!まさか」
 ぴたっ、と全員が動きを止めた。今ここで一つ共通の仮説が浮かび上がったからだ。しかし、今ここに揃ったメンバーとしてはひどく言い出しにくい。霊媒師、霊媒師に裏切られた男、死者の力を借りて法廷に立つ弁護士。何でこんな面子で”アレ”と出会わなければならないのだ。
 「まさか・・・ね・・・。ははは・・・」と、なるほどくんがつぶやいたが、あたしはちょっと考えた。
 「うーん、じゃ、帰ろうか」
 「え」
 驚いた風な、ふたり分の目線があたしのところに集まった。
 「だって泥棒じゃないんだしさ」
 「そ、そういうわけにもいかないんじゃないか、一応、僕の事務所だし」
 「あのさ、もし泥棒が来ても慌てて逃げてくよ。幽霊に会ったらさ」
 沈黙。
 二人は静まり返って、こちらを凝視している。
 「れ、霊媒師としてその発言はどうなんだろう」
 「ギリギリかなぁ」
 「て、いうかそう思うんなら霊媒師として何とかしてくれよ、この際」
 「そういうのはうちの霊媒師の仕事じゃないんだって。とりあえず、盛り塩しとけばいいのかな?こういうときって」
 どう思う?と顔を向けるとえらく脱力したなるほどくんの顔が見えた。御剣検事の方はしばらくあたしを時限爆弾でも見つけたような顔で見ていたが、少し考えてからビルの方を向いた。
 「もどって見てみるしかないだろう」
 そう言って御剣検事はビルの入り口へ姿を消した。
 あたしの方はなるほどくんと顔を見合わせていたが、それを振り切って御剣検事の後を追いかけた。数瞬置いて後ろから静かなため息が聞こえ、それに足音が続く音が耳に届いた。

 



04

 小走りになると、ちょうどドアを開けているところに追いついた。背の高い目の前の男は、用心して体がドアの影になるよう慎重に中をのぞき込んでいる。あたしはそれにならって、壁沿いに御剣検事に近づきぴったり隣に収まった。
 なるほどくんはそんなあたし達を見て、邪魔にならないよう物陰まで下がった。いまいち積極性が感じられない。
 そんな心中はお構いなしに廊下には緊張がみなぎっていた。御剣検事はなかの動向を細大漏らさず見守ろうと、なかをずっと睨み続けている。
 水を打ったような静けさは廊下だけではなく、このビル、このブロックまで染みわたるようで、耳は遠くからのエンジン音だけを拾っていた。
 さっきまでの騒ぎが静まってしまったおかげで、暗闇への恐怖がじょじょに盛り返して来る。
 あたしのいる場所からは殆どなかがうかがえないので、かわりに想像してみたがすぐ怖くなってやめた。
 真っ暗な廊下は昼間とは様相を変え、つまらない壁のシミすら迫ってくるように見えた。
 「今、中で何かが動かなかったか」
 「きゃぁっ」
 「な、な、」
 御剣検事のうろたえ方は、こんな暗がりでもはっきりと見てとれた。
 「い、いえ、別に。ちょっと、心臓が口から飛び出そうになったっていうだけで」
 「ムウ・・・」
 顔までは見えなかったが、御剣検事はまた部屋のなかの方に向いたようだった。
 「・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「光った」
 「わぁぁっ」
 慌てて口の前に指を立てた御剣検事に睨まれる。
 「でも・・・あたしには見えなかったんですけど・・・」
 御剣検事は、意見を聞こうとなるほどくんの方を向いたが、肝心の相手は、なんとじっと壁を見つめていた。
 彼にとっては、この顛末のオチが、たとえ自分の存在の本質を揺るがすような何かであってもそうでなくても、あたしたち二人に任せたらあとは蛇が出ようが鬼が出ようがどうでもいいらしかった。当事者としての自覚は微塵も感じられない。ちょっとずるいと思う。
 御剣検事はしかたなくあたしに頷きかけ、そのまま音もなく扉の中に滑り込みドア横の点灯スイッチをオンにした。中から光がこぼれてくる。
 あたしも遅れまいと、そろそろと中をのぞき込む。一見、部屋を出たときと何も変わらない。あちこち探し回ったおかげで、物があらぬところに置いたままになっている。その上、寝るためにソファの上を片付けたせいか、その周りが一番ひどいことになっている。違いと言えば、せいぜいソファの上に毛布がかかっているくらいだ。あたしが出たあとなるほどくんが掛けたのだろう。花模様の、ポピュラーな安物の毛布。それが。それがなんで。
 喉から小さな悲鳴が漏れた。
 「・・・なんで毛布が動いてるのっ!?」
 毛布の中央が小さく盛り上がっているが、その盛り上がりがするすると動いているのだ。全身の肌が粟立つ。とたんに毛布がめくれて跳ね上がった。
 「ひゃああああああっ!!」
 「真宵ちゃん!?」
 慌てて二人も駆けつけてくる。しかし、間に合いはしなかった。
 そこで二人が見たもの。
 それは、泥棒でもなく、悪霊でもなく、猫に飛びかかられて放心しているあたしであった。
 「にー」
 猫は肩の上で鳴いた。
 なるほどくんがカツカツと歩いてきて、猫の首根っこを捕んだ。しげしげと猫を眺める。見ればなるほどくんの顔ほどの大きさもない。ほんの仔猫だ。黄色いトラ縞の、野良とおぼしい汚れた顔をしている。
 「それか?」
 御剣検事も横から覗き込んで言う。
 「その・・・・・・幽霊・・・の正体は」
 笑いをこらえられない、と言った表情だ。その顔を見たなるほどくんは、ひどく嫌そうな表情になって仔猫に眼を戻した。
 「・・・・・・何でこんなところに猫なんか居るんだよ」
 そんなこと言われても、と返そうと思ったが何かが引っかかった。
 「あ・・・!」
 その場の視線があたしに集まる。それには構わず給湯スペースまで駆けていく。ひょっとして。
 暗がりを覗き込むと、それでも雑多な道具に埋め尽くされた空間が浮かび上がる。ガスコンロ、その上にヤカン、足下にゴミ箱、流し台、流し台には湯沸かし器。そして壊れた換気扇。そう、換気扇が壊れていたのだ。だから。
 「やっぱり・・・」
 あたしは今朝のことを思い出す。
 狭苦しい空間で湯を沸かしている。換気扇のひもを引っ張る。ウンともスンとも。しようがないので窓を・・・。
 「まど、開けたまんまだったぁ・・・」
 風がひゅうと吹き抜けた。

  



05

 とぼとぼと戻ると、なるほどくんが御剣検事にさんざんからかわれていた。鬱陶しい、と聞き流しているが耳が若干赤く染まっている。
 よくよく見れば、御剣検事はやたらに楽しそうである。耳をすまして会話を聞いてみると、小学生の頃にまでさかのぼって笑い話をあげつらっている。”まだ一人で寝られないのか”だの”小学生の頃より恐がりだ”だのかなり好き勝手言っているのが聞こえた。日頃の鬱憤がたまっているのだろう。
 しばらく御剣検事が何か言ったあとになるほどくんが「うるさい」とかえす応酬が続いていたが、そのうちに御剣検事の気が済んだのか他愛のない世間話に移っていった。驚くべきことに、今は三日前の夕食のメニューを思い出せるかどうかといったところまで話が進んでいる。
 この和やかな様子では、どうやらイタズラの種明かしはされそうにない。と、いうことは中止、なのだろうか。・・・そんな話はひどいんじゃないだろうか。しょせん、この親友さんたちにどろどろの復讐劇は無理だったのかもしれない。
 だがしかし、と考える。これでなるほどくんも寝られるだろう。鍵なら服に挟まってたことにでもして明日渡せばいい。なるほどくんは裏で進行していた陰謀については何も知らずに終わるだろうが、なるほどくんならそんなところが妥当だろう。
 そのうちにあたしは手持ちぶさたになってしまい、足下にいた猫を抱きあげた。ところが、何が気に食わないのかするすると腕から逃げ出そうとする。落ちそうになる仔猫をおぼつかない手つきで抱き止める。また逃げる。止める。逃げる。するっ。落ちる。
 「わぁぁっ」
 びりりっと、音がして猫が止まった。爪が装束のたもとに引っかかって、落ちずにすんだようだ。ほっと息をつく。
 しかしまた、びりり。「わ」。猫がちょっとすべる。
 びりり。「ちょ、ちょっと」。暴れ出す猫。
 び・・・・・・びびびびっ。「うわぁっ!」
 袖が裂けた。前の二人も振り向く。カツンという音が響いた。くるりとまわって美しく着地した猫は、そのままどこかへ消えてしまった。
 「ありゃあ・・・これじゃ、直せないなあ・・・」
 まっぷたつになったたもとの見聞をしていると、なるほどくんが立ち上がり、そばでかがみこんだ。
 あんまりひどく裂けていたが、ありがたいことにこの装束には替えがある。しかたない、こういうこともあるさ、と顔を上げると、目の前に事務所の鍵と、鍵をつかんだまま無表情のなるほどくんの顔があった。
 「あ・・・」
 慌ててたもとを見直すと、裂かれた布地には何も入っていなかった。見れば、御剣検事の顔も色が失せている。
 「いま、真宵ちゃんのそでから出てきたんだけど」
 「えーと・・・」
 あたしは先ほどの考えを恥じた。どんな状況も、いつ泥沼に転じるかわからないものだ。
 「もしかして・・・わざとだったわけ?」
 声に静かな怒りがこもっている。
 あたしは自分に落ち着けと言い聞かせる。こいうところで人間は試されるのだ、と思うことにする。
 自らの不注意で追いつめられる。最悪の状況だが、切り抜ける手だてはあるはずだ。
 ―何かないか?
 そこでふ、と気付く。そもそも始めからあたしが焦る必要なんてないのだ。窮地に立たされているのは実はあたしではない。これはひょっとしたらあたしにとってのチャンスではないか。
 少しうつむいて、タイミングを待つ。
 「なんでこんなことを?」
 顔を上げて目を合わせる。
 ゆっくりと口を開く。
 「みつるぎけんじ」
 「なに」
 「御剣検事に言われて・・・仕方なく」
 バッとなるほどくんがふりかえった。そこから目をそらした御剣検事がこっちを見る。
 ”なぜ?”―眼で問われる。
 ”面白いかなあって”―眼で答える。
 「おい、コラ」
 「・・・なんだ」
 そこでようやく御剣検事となるほどくんの目が合った。
 「どういう了見なんだよ」
 いつもよりも幾分低くなった声に彼のいらだちが表れている。対する御剣検事は静かに眼を伏せてから、慎重に言葉を選んでつむぎだす。
 「確かに、悪趣味だったことは謝ろう」
 「あのソファ、どんだけ狭いか知ってるのかよ」
 「・・・だが、君は先日私の書類を」
 「この騒ぎのおかげで夕飯も食い損なったし」
 聞いちゃいない。
 「き、聞いてくれ」
 「何が”まだ一人で寝られないのか”だ、お前のせいじゃないか」
 「だがっ、君がこの前私の書類を事務所に置きっぱなしにしたときはだな・・・!」
 ついに御剣検事は切り札を切った。―しかし残念ながら相手の手を読むのを忘れていた。
 「・・・・・・何のはなし?」
 なるほどくんの顔は―盛大にしかめられていた。
 「なっ・・・」
 「・・・・・・」
 あたしは――そもそも仕返しなんて方法がうまく行くとは思っていなかった。
 例の事件以来二人は会っていない。つまり二人の間で一度もその話がのぼったことはない。その上あたしは知っていた。実はその書類はソファの下に落ちている。
 つまり、あの日施錠して帰ったあとなるほどくんは恐らく一度も御剣検事の書類のことなど思い出さずに、まるで何事もなかったかのように今日まで過ごしてきたのだろう。きれいサッパリ、忘れられてしまったのだ。
 そんな状況でいきなり仕返しをして、当のなるほどくんが理解を示すとは思えなかった。悪意はたいていさらなる悪意を生むものだ。つまり、今この状況で必要なのは報復ではない。なるほどくんの理解と、それによる謝罪だ。しかし、復讐に息巻く御剣検事が、こんな忠告を受け入れるとは思えなかった。そこであたしは一計を案じた。
 報復を失敗させるために、御剣検事のイタズラを手伝う。そして途中で彼の企みをなるほどくんに暴く。それも、御剣検事のいる場で。本当は、明日の朝あたしがやるつもりだったが、それを今、御剣検事がやったところで大差はないだろう。
 額に青筋を浮かべた御剣検事は、事件によって被った甚大な被害についてとうとうと語りだした。なるほどくんは、しばらく黙って聞いていた。しかし、どうにも反応が薄い。あたしが思ったような驚きは、彼の表情のどこからも感じられない。
 ついに御剣検事は全てを吐き出し、目の前の男の言葉を待った。しかし、なるほどくんのセリフはあたしの予想と百八十度違っていた。
 「でもそれは、帰るまでに取りに来なかったお前が悪いんだろ」
 御剣検事の額に、しわが一本増えるのが見えた。御剣検事は絞り出すような声で言った。
 「その日は仕事を抜けられなかったのだ・・・・・・仕方がないだろう」
 「連絡ぐらい出来るだろ」
 「それも出来ないときはある!」
 なるほどくんがこちらを振り向いて言った。
 「どうだろうね」
 どうやら、あたしの作戦はまるで逆の効果を生んでいるらしかった。しかたなくあたしも御剣検事に加勢する。
 「で、でも、なるほどくんが帰っちゃったら御剣検事が困るってわかってたんでしょ!?」
 「”あとで取りに来る”としか言わなかったからなぁ。まさか、終業後も残れなんて意味だとは思わなかったなあ」
 「それはたしかに・・・遅れることを言わなかったのは悪かったが・・・」
 意外にも、御剣検事はムリヤリな屁理屈に押されていた。それでもあたしは心の中で必死にエールを送り続けるが、さほどの甲斐もなくなるほどくんは図に乗った。
 「あーあ、濡れ衣着せられて逆恨みでこんな時間まで居残りだよ。飯ぐらいおごってくれるんだろうな」
 「そんな馬鹿な理屈が・・・!」
 しかし、そこで御剣検事は何を思ったかこちらを向いた。なにやらあたしをじっと見て、それから小さくため息をついた。
 軽く頭を振っていたが、どうやら頭を冷やそうとする動作のようだった。
 「確かにもう遅い・・・。真宵君まで付き合わせてしまった。食事にしよう」
 なんと、あたしを送り届けねばと思って鞘を収めたようだ。それでいいのか、と御剣検事の目を見たが、そこに映っていたのは”しかたない”という一言だった。
 あたしは、ひょっとすると―と思った。もしかして、書類の恨みに関しては、さっきなるほどくんをさんざんからかったあたりで気は済んでいたのかも知れない。やはり、このふたりではどろどろとしたドラマは期待できないのかもしれない。
 おとなしく矛を収めた御剣検事にならって、あたしも頭を冷やす。謝罪がないのでは見込み違いだが、丸く収まるならこんな結末でも良いのかも知れない。
 何よりご飯が食べられるしね、と思ってなるほどくんの方を向いたが、なぜか彼だけがまだ不満の残る顔をしていた。
 



06

 御剣検事は車を表に回すと言って先に出ていった。依然散らかったままの事務所で、なるほどくんと二人きりになる。
 なるほどくんは一人帰り支度を整えていた。
 先ほど見せた怒りはどうなったとなるほどくんを見るが、ここから背中越しには表情がわからなかった。あたしは、思い切ってぽつりと話しかけた。
 「さっきのは、ちょっとゴーインだったんじゃないかなあ・・・」
 聞いているのかいないのか、なるほどくんは机を離れてソファのそばまで歩いて行った。
 そのままかがみ込んで、おもむろにソファの下に手を突っ込んだ。しばらくして引っぱり出した手には、くだんの茶封筒が握られていた。
 あたしはもちろん、仰天した。
 「それ・・・・・・知ってたの!?」
 「まあね。ここに放り込んだの、僕だし」
 そう言って、なるほどくんは封筒を裏返して見せた。赤ペンで何やらごちゃごちゃと書き込まれているが、ここからではよく読めない。しかし、どうやらそれが御剣検事のものだという証らしかった。
 「な、なんで!」
 「忘れてるのはあいつの方なんだよ」
 「・・・どういうこと?」
 なるほどくんは目をそらして、がりがりと頭を掻く仕草をした。どうやら話し難いことらしい。それでも彼は、静かに話しだした。
 「・・・・・・取りに来たら、そのあといっしょに食事に行こう、って話だったんだよ」
 もちろん、御剣検事からはそんな話は聞いていない。
 「まあ、久しぶりに遊べるなって思ってたんだよ。そしたらさ、取りに来ないじゃないか。待っても待っても。―それで結局腹が立って、鍵掛けて帰ったんだ」
 「へえ・・・」
 それは―ちょっと、わかるかもしれない。
 「何も言って来ないと思ったら。すっかり忘れてたんだな、そんなこと」
 どすん、とソファに座り込む背中が、少し丸まっている。
 何か話しかけようかと思ったが、結局その場の空気に飲み込まれて何も出てきはしなかった。
 御剣検事から最初にこの話を聞いたときには、なんて理不尽なことをするのかと思った。だが今、暗いこの部屋で、ひとり待ち続けるなるほどくんを思うと涙が出そうになった。
 「本当は待ってたんだ」
 「え?」
 あんまり囁くような声だったので、あたしは少し驚いた。
 なるほどくんは続けたが、まるで独り言のように聞こえた。
 「悪かった、埋め合わせに食事でも・・・・・・って言われるのをさ」
 そのまま、また黙ってしまった。
 一週間。
 会えないはずだ。お互い相手からの謝罪を待っていたのだ。
 待っていてもそんなものは来ないとわかり、一人は投げやりに書類を放り捨ててしまった。もう一人は、残ったわだかまりを消そうと、ちょっとしたいたずらを思いついた。どちらも結局、事態の収束に貢献したりはしなかったが。
 このヒトたちは、いい年をしていったい何をやっているのかと思った。だが、こんな間抜けなすれ違いは、一生どこかで続いていくのかもしれない。悲しいことだけれど。
 そうこうするうちに表からエンジン音が響いてきた。ゆっくりと停止して、ドアが開く音が聞こえてくる。御剣検事がもうすぐここへやってくるのはわかっていたが、どうやって彼が忘れていたことを説明すればいいのかまったくわからなかった。
 鈍い音を立てて扉が開いた。
 するとなんと、何も言えず困った顔をしたあたしよりも早く、なるほどくんが立ち上がった。
 「悪かったよ。今になって見つかったよ、これ。本当にすっかり忘れてたんだな・・・」
 御剣検事は面食らった顔をした。彼も、まさかこんなセリフが出てくるとは思っていなかったのだろうが、一番驚いたのはあたしだ。これはいったいどういう風の吹き回しなのだろう。
 「まったく・・・これからはおちおち物を預けられないな」
 御剣検事は笑いながらそう言って、あたし達をおもてにうながした。
 それでいいのか、となるほどくんを見ると軽い足取りで近づいてきて、御剣検事からは見えない角度で話しかけてきた。
 「謝ってほしかったんでしょ」
 「でも・・・結局はなるほどくんが謝ること、ないんじゃない?」
 するとなるほどくんは頬をゆるませて─よくよく考えれば今日初めての─微笑みを見せてから答えた。
 「一緒にこれが入ってたんだ」
 そういって一枚のメモを突きつけられた。文面はたった二言。
 「7時 成歩堂と食事」
 「これ・・・」
 「証拠、っていうのはこういうものを言うんだからね」
 なるほどくんの目が生き生きとだした。事務所の大捜索をやっているときには見られなかった眼だ。
 「これから飯の席で、あいつをさんざん締め上げてみようと思うんだけど」
 協力してくれる?と言う眼からは、さっきのさみしげな声は想像できなかった。さっき彼に同情したのは間違いだったのだろうか。
 しかし、とあたしは思った。どうせこれが楽しいんだろう。そしてあたしも、しんみりしているよりはこっちの方が好きだ。
 そんなわけで、あたしは懲りずに答えた。
 「うん!」






end


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