without a time machine



01

 「あんたはどうなんだ?あんたはいったい誰なんだ?」
 (中略)
 「きみはわからないのか?本当にわからないのか?」
 俺は目をあけて男を見つめ、首をふった。「ああ。わからない。おれは――あんたが好きだよ」
 男は含み笑いをした。「それは妙だな。わたしは自分が嫌いなのに」

―シオドア・スタージョン「シシジイじゃない」







 毎日、この階段をのぼり、扉を開いて一日が始まる。
 それはきっと、この今の状況が変わらない限り普遍的に続いていく日常なのだ。あたしはそう信じて疑わなかった。
 なので、階段に座り込むその男を見て、あたしはちょっとした非日常を感じざるを得なかった。階段は狭く、その男がどかないとあたしは階上へ上がれない。それはつまり、あたしにとっての一日が始まらないことを意味していた。
 男は何やら頭を抱えていて顔は見えなかったが、服装だのから察するところ、彼はあたしの全く知らない人間のようだった。あたしはもちろんその人物にご退場願いたかったが、見知らぬ人間がせまっ苦しい階段に座り込んでいて、なおかつここがある程度町中である以上、接触をはかればトラブルを呼ぶかも知れないとも考えた。
 ―でもだいじょぶ。なるほどくんが(多分)居るし。
 何よりあたしは、日常を邪魔されたことに対して幾ばくかのいらだちを感じていた。なぜここであたしが卑屈になる必要があるのか?職場へ向かうティーンエイジャーが、朝っぱらからこんなところで時間をつぶしている成人男性に遠慮をしなければならない理屈が、一体どこにあるというのか?
そう思ったら行動は早く、あたしはずかずかと階段下に歩み寄り、大仰な足音を立てて座り込む男の間近に近寄った。
 一方男はそこでやっとあたしの気配に気付いたようで、ふっと顔を上げた。その目があたしの顔をじっと見てくるので、あたしはなるだけ威圧的に見えるようににらみ返してやる。すると、男は苦虫を噛みつぶしたような顔で押し黙ってしまった。それでもその両目はじっとあたしを見たままだったので、かえってあたしの方が軽くひるんでしまった。
 なにせあたしが考えていた男の反応とは、せいぜい「あ、すみません」とでも言ってとりあえずここをどくか、反対に何かひどい罵声を浴びせられてあたしが追い返されるような展開だった。どうやら男の対応はそのどちらでもなかったようなので、何かあたしの方が間違ったことをしでかしたような気分になってきた。この男がここにこうして居座っていることには正当な理由があるが、対するあたしにそれを妨げる権利はない、といった風情だ。しかし、これでは階段を上れない。
 あたしは、日本人独特の会釈だけのコミュニケーションを諦めて、言葉で訴え出ることにした。なるたけ相手を刺激しないように気をつけながら。
 「あのう・・・・・・・どいていただけませんか?」
 これが、ちょっと気弱な女の子が途方に暮れているように聞こえればいい、と思ったのだが結局この男にどう届いたかはわからない。
 男はようやくあたしの顔から目をそらし、今度はうつむいて重たげに声を絞り出した。
 「遅いんじゃない、来るの」
 あたしは、なんでそんなことまでこの男に言われなければならないのかと喚きそうになるのを、なんとか寸前でこらえた。それはもちろん男の説教に反省したからではない。それを言った声こそは、確かにあたしの聞き覚えのあるものだったからだ。
 今度はあたしの方がじろじろ相手の顔を見る番だった。そうだ、何で気付かなかったのだろう。
 「何やってるの・・・」
 しかし、男はそこであたしの言葉を止めた。
 「三十分後。またここで」
 一方的に告げて、彼はさっさと背中を向けてしまった。
 あたしは無意識に追いかけそうになったが、彼のその足取りは誰かが後ろについてくることを考えていない遠慮のないものだった。あっと言う間に彼は視界から消え去り、そこにいた気配すらも失せてしまった。
 あたしは今度こそ喚いていてもおかしくなかったが、あんまりに手際のよい失踪に、当然抱いてしかるべき様々な不満を感じなかった。きっとあれは平和な二世帯家屋にダンプカーが時速八十キロでつっこんできたような、そんなどうにも回避しようのない出来事だったのだろう。とりあえずそう思うことにした。
 しかたなくあたしは日常のシンボルである階段を上り、儀式のように扉を開け、一日の始まりをくぐり抜けた。
しかしそこにあったのは、あたしの予想していた日常ではない”いつもの事務所”だった。
 そこはなに一ついつもと変わりが無く、それこそ昨日あたしが一日を始めた瞬間と全く同一の光景があった。しかし、そんなわけはないと扉を閉じてまた開けてみる。それでも、やはり目の前には見飽きたとも言える朝の風景が無神経に広がっていた。
 自分の口が開いたまま塞がっていないのには気付いていたが、それを閉めるという行動を思い出すのは目の前の状況を理解するのと同じくらい難しかった。
 「・・・・・・なにやってるの、真宵ちゃん」
 不条理を絵に描いたような景色の中で、最も無神経な異物が口を開いた。あたしは思わず後ずさり、勢いよく扉を閉めて階段を駆け下りた。そして、それまでの朝の風景を巻き戻すかのように往来へ逃げ出したのだった。
人気のない路地を駆け抜けながら、ついさっき聞いたセリフが頭を横切った。
 ”三十分後、またここで”
 いま、理解できている言葉はそれだけだった。

 



02

 あいにく時計も携帯電話も持ち合わせていなかったおかげで、それからの数十分はひどく気だるく、長かった。そろそろだろうと思う頃に事務所の入り口まで戻ってきたが、結局戻ってくるまでの時間よりも長く待たされた。
 さっきあの男と出会った段に腰掛けてじっと往来を眺めていたが、そこに目的の人物を見つけた頃にはあたしは彼に聞くべき質問内容を頭の中で整理しきっていた。
 音もなく階段を上ってくる男は、先ほどより幾分落ち着いて見えた。
 「や」というのんきな挨拶にあたしは答えなかった。頭の中ではさっき決めた自分の”第一声”が渦を巻いていた。そのせりふが少しでもまともである人間の口にする言葉であるとは、もちろん思っていなかったが、どう考えてもぶっ飛んでいるのはあたしの頭ではなくこの現実の方だ。
 「なんで・・・」
 男はどうやらあたしの質問に見当がついているらしく、静かに聞き入っていた。
 「なんで・・・なるほどくんがふたり居るの?」
 顔色一つ変えずに、なるほどくんと同じ顔をしたパーカーの男はじっとあたしを見ていた。それでもあたしがしびれを切らす頃に目線をおろした。
 「そんなわけないだろ」
 「何言ってるの」
 やる気も誠意も感じられない返答にあたしは苛立った。
 「顔も、声も、背たけもおんなじで、そんな言い訳が通るはずないでしょ!」
 言われて彼は、あたしではなく空を見上げた。灰色のコンクリートと、あとはせいぜい蛍光灯ぐらいしか見えないに違いない。
 しばらく待つと、ようやく顔を向けてきた。
 「あ・た・り」
 と言って笑ったが、どうにもあたしの知っている笑い方ではなく落ち着かない気になった。自分で追いつめたにも関わらず、あたしはこれが何かの詐欺ではないかという思いを消せずにいた。どっちにしろ不愉快な出来事であることには変わりないが、少なくとも詐欺なら理解は出来る。いや、それでもやはりわからない。彼のふりをしようと思ったら誰だってスーツを選ぶ。パーカーにニット帽の格好はしない。
 そんな目で見ているのがわかったようで、なるほどくんを名乗る男はあたしを見つめてぼそりとつぶやいた。
 「今日は、なんがつなんにち?」
 「な、なに、いきなり」
 今度は彼は少しまじめな顔をしたが、それでももう一度同じ言葉を繰り返してくるので、あたしは昨日のカレンダーを思い出して今日の日付をそのまま伝えた。
 すると、嫌な予感が当たった人間のよくする、あの諦めたような微笑みを見せてうつむいた。しばらくそのまま何かを考えているようだったが、やがて重々しく顔を上げてもう一度つぶやいた。
 「何年の・・・かな?」
 「なに言ってるの!だいじょぶ・・・」
 そこまで言ってはたと気付いた。目の前の男の顔はよく知っているその顔とまるまる同じだと思っていたが、よく見れば目のあたりは少し印象が違う。じっと見ると、まぶたのあたりに疲れが浮かんで見え、とても20代には見えない。なるほどくんの仕事ぶりはいつだってムチャクチャだが、こんな目をしているのは見たことがない。まるで七つは年をとったように見える・・・。
 「まさか・・・」
 「何年?」
 またあたしが教えてあげると、小さなため息をついて「しょうがないか」と言った。
 「しょうがなくないっ、まさか・・・」
 「懐かしいな」
 セリフを遮られて恨みがましい目線を送ると、またあの見慣れぬ微笑みを浮かべた。
 「七年前の真宵ちゃん・・・ってことになるのかな」
 「未来の・・・なるほどくん?そんな・・・」
 言葉に詰まったあたしの顔をみたまま、目の前の男は楽しそうに言った。
 「そんな馬鹿な」
 けらけら笑う顔に理性がふっきれた。
 「なんで!?」
 「知らない」
 身も蓋もないのだって程があるんじゃないだろうか。
 「その・・・タイムマシンが出来た、とか」
 「聞かないねえ、そんな話」
 「なるほどくん時を駆ける少女だったの?」
 「どこから出てくるんだよ、そんな想像」
 他愛のないいつもの話だったが、彼はどことなく楽しそうだった。心底懐かしがっているのかもしれない。・・・じゃあ未来の彼は今のようにあたしと仕事をしているのではないのではないだろうか?何だかややこしくなりそうだったのでその考えは脇に置いた。
 「・・・でも、どうやって信じろっていうの?それだけじゃ・・・」
 そんな言葉とは裏腹に、なぜだか心中ではこのよた話を信じる気になっていたが―さっきもう一人のなるほどくんを見たせいかもしれない―これだけで相手の言い分を信じていいなら精神科医は軒並み廃業だ。しかし彼はあたしの話を聞くうちに何やら不吉な表情を浮かべた。
 「じゃあ一つ予言をして見せるけど」
 顔はしかめられたままだ。
 「たぶん、もうすぐ”ぼく”が来るよ」
 それと同時に別の・・・いや、同じ声が後ろからした。
 「・・・なにやってるの、真宵ちゃん」
 ―三秒前じゃ、予言に意味ないじゃない・・・
 あたしは、ため息をついてふりむいた。
  



03

 階段の下には疲れ切った青いスーツの男が立っていた。
 「なんでそんなところに?」
 「探しに行ってたんだよ。真宵ちゃんを」
 なるほどくん―若い方のなるほどくんは手の甲で額の汗を拭った。シャツにもうっすらとあせ染みが浮かんでいる。よほど走り回ったようだ。
 「どうしちゃったんだよ・・・今朝から」
 そう言って一歩段をあがった。
 「どうって・・・どうもしないよ。ちょっと、その・・・よ、用事をね、思い出したわけだよ」
 「誰そのひと」
 聞いちゃいない。
 「真宵ちゃん、知ってるひと?そのニット帽の、おじ・・・おニイさん」
 慌てて振り向くと不機嫌な顔を浮かべてなるほどくんが座っていた。
 冗談じゃない。ここでもし自分同士のケンカでも始められたら事態はますますこじれていく。なるほどくん(もちろん若いほう)に相手が自分であることを気付かせることすら賛成できない。まだ状況を判断し切れていない頭でもわかる。絶対に面倒に巻き込まれる。
 あたしは労苦の種を消し去ろうと声を張り上げた。
 「あ、あのねっ」
 「わあ」
 なるほどくんは三歩ほど下がって耳をふさいだ。
 「そ、そんな大声で言わなくても、き、聞こえてるって!」
 「あのねっ、このひと、なんと!なるほどくんの遠縁の親戚、成歩堂さん」
 「ええ・・・?」
 目の前のなるほどくんは、あからさまにうさん臭そうな顔をして、それからようやく手を耳から離した。
 「だれ、遠縁って」
 「それが、親戚をたどってよおっやくここを見つけたんだってっ。一度も会ったこと、ないんだってっ」
 するする嘘が出てくる自分に驚いたが、このままなんとかこの二人を引き離す方に持っていけるか心配だった。
 「えっええと、その、・・・・・・弟さん、弟さんがね、捕まっちゃったんだって。さ、殺人容疑で」
 「殺人・・・?」
 少し大げさだっただろうか。
 「そう、成歩堂さんはね、弟さんのムジツを信じているわけ。でも、ほら、・・・いまさ、ほら、抱えてる事件があったじゃない。それで、他の弁護士さんを教えてあげようと」
 「ないよ、事件なんて」
 憮然とした顔には、「承けても構わない」という文字が浮かんでいた。
 「そ、そうだっけ」
 あたしにとってはすこぶるまずい状況だ。ええと、どうしよう。ど、どうしたら。
 「・・・ゴホッ」
 背後からの合図で慌てて正気に戻る。
 「そ、そのね、いま急いで戻らなきゃ、留置所に、いけないんだって。弟さんに、会わないと。いますぐなんだよ!」
 しかし、その言葉を聞いたとたんなるほどくんが真面目さを帯びはじめた。
 「そりゃ――まずいんじゃないか?ぼくもついていこうか」
 「え、えっと・・・や、やっぱり弟さんに聞かないと、ほら・・・・・・人見知りなんだよ、弟さんは!だから、今勝手に決めたら、その、まずいんじゃないかな」
 「へ、へえ」
 信じてくれたとは思えないが、とりあえず気圧されしたらしいなるほどくんは静かになった。
 あたしはこのまま、送るとでも言ってどこかでこの未来からの使者の話を聞こう。そのためにも早くここを離れなければならない。
 早速出かけようと、後ろでずっと大人しく―ずっとセキしていたが―一部始終を眺めていた方のなるほどくんの腕をとったとたん、いきなり目の前で彼がどっとセキ込んだ。
 「だ、大丈夫ですか!?」
 ぽかんと突っ立ったままのあたしの代わりに、なるほどくんが駆け寄ってきた。すると腕を組んだままの彼が地面にくずおれた。あたしは慌てて支えようとしたが、バランスを崩しそうになって彼から手を離した。
 駆け寄ってきたなるほどくんは、かがみ込んで自分―としか言いようがない―の背中をなでている。彼の方もそれでだいぶん落ち着いたらしく、切れ切れに話している。
 「どうも・・・すまない」
 ―悪夢だ。
 地面に座り込んだ男がなるほどくんに話しかけている。こうならないようにというあたしの努力は、すべて水の泡となってしまった。
 「持病の癪が・・・恥ずかしいところを」
 お前は大正時代の令嬢か。
 「それは別にいいんですけど・・・大丈夫ですか?」
 「それが・・・・・・あまり大丈夫とも言えないようでね。――それでもし、差し支えなかったら」
 そこで地面の男はちら、と上目遣いになるほどくんを見上げた。その不自然な態度に、あたしはすぐ気付いた。
 ―嘘だ。
 するすると血の気の引く思いがした。この騒ぎは彼のお芝居にすぎないのだ。
 あたしはこのふたりがいっしょにならないようにと尽力してきたつもりだった。しかし、このままでは――
 「差し支えなければ――事務所で休ませてもらってもいいかい?」
 なにを、と声を上げそうになったあたしの耳元に、なるほどくんがそっとつぶやいた。
 「ところでさっきのあれ・・・ぼくは本当になって必死に探したんだよ。真宵ちゃんを」



04

 うららかに差し込む昼の光の中、あたしはソファの上で大人しくしているパーカーの男と、その向かいに座るスーツの男の顔を交互に見比べてみた。―寒気がするほどそっくりな顔をしている。
 年長なるほどくん(と、呼ぶことにした)の顔がなるほどくんにバレたらとひやひやしどおしだったが、年長さんはうまくなるほどくんの視線をよけ続けているらしく、なるほどくんは今向かいにいる男の顔のことなど考えてもいないようだ。
 「おかげさまで・・・落ち着いたよ」
 「でも、留置所へ行くんじゃなかったですか?送っていきましょうか」
 それならあたしが、と言おうとしたところで年長なるほどくんが首をふった。
 「それなら多分・・・妹がやってくれているだろう」
 い、妹?
 「実はもう、彼女が決めた弁護士が行ってるはずなんだ」
 そこでパーカーの男はわざとらしく口を閉ざした。先を聞かずにはいられないように。
 「じゃあなんでうちに・・・」
 案の定先をうながすなるほどくんに、”しかたない”という顔をして年長なるほどくんが続ける。
 「いや。・・・妹が勝手に弟の弁護士を決めてしまったものだから。先を越されたのが嫌で・・・ぼくも探そうとしたんだけど。このざまじゃあね」
 「持病を抱えながらのフィールドワークは・・・危険ですよ」
 このなかで事情を知らないのはなるほどくんだけだからしかたないが、真面目くさった彼の顔が少しおかしかった。よくもまあ、こんな嘘がポンポン出てくるものだ。人のことは、言えないが。
 「ああ、まったくだ。それによくよく頭を冷やして考えれば・・・妹がもう決めてしまったんだから、そのまま頼むのが一番いいだろうね。妹が嫌いなのはぼくであって、弟ではないんだし」
 口から出た適当なでまかせだということはわかっているが、あたしの作った適当な設定を踏まえた上でなにやら複雑な家庭像まで作り上げている。オーバーすぎて嘘だとばれないかと思ったが、この成歩堂法律事務所においては、このくらいは地味な方かもしれなかった。
 「さて、さんざん迷惑をかけてしまったが・・・もう少し邪魔をしてもいいかい?まだ少し・・・」
 語尾は消え入るようにごまかされた。
 「ああ、そうですね。どうぞ」
 どうやらこの場の雰囲気を気まずいと思っているのはあたしだけのようで、なるほどくんはあっさり快諾してしまった。
 しかたなく、あたしなりに状況を打開しようと、会話が途切れたのを期になるほどくんに声をかける。
 「トイレットペーパーがなくなってたんだけど」
 「ああ、そう言えば・・・」
 「買ってきてよ。あそこのスーパー、今日特売なんだ」
 なるほどくんをいったんここから追い出そうという苦肉の策だったが、すぐに嫌そうな表情をされて、「真宵ちゃんが行けばいいじゃないか」と返してきた。
 「ぼくだって仕事があるんだからね」
 「うう・・・」
 年長のなるほどくんには裏切られ、スーツのなるほどくんはいまいち空気を読んでくれない。さんざんな一日だ。
 その年長なるほどくんは、さっきからソファの上で病人のふりを続けるばかりで、いったいさっきの芝居になんの意味があったのかさっぱりわからない。このままならそのうち出ていくつもりのようだし、それならさっきのあの騒ぎに乗じて姿をくらましても同じだったはずだ。―ひょっとして事務所のなかに入ることに何か意味があるのだろうか。そう思って、しばらく年長なるほどくんを見つめてみるが、時折出されたお茶を口に運ぶくらいで他に何かをするような気配はなかった。
 同じ男が向かい合って茶を飲むという事態のあまりのシュールさに、あたしが耐えられなくなっていたころに、それは鳴った。
 なるほどくんのスーツから響いてくるそれは、聞き慣れたメロディを奏でた。
 慌てて携帯を取りだしたなるほどくんは、ディスプレイを見て少し戸惑った。しかし、あたしたちに一言「すいません」と言うと、通話をしにドアから静かに出ていった。
 



05

 ふたりきりになった事務所で、あたしは叫んだ。
 「どーいうつもりなの!」
 ニット帽の男はべつだん堪えたふうもなく、「すぐにわかるよ」と言った。
 「だって、自分の意志で来たんじゃないんでしょ?」
 「まあね。道に迷っているうちにこんなところに来ちゃったんだよ」
 「帰る方法とか考えないの」
 「それは・・・たぶん、帰れると思うんだ」
 「な、なんで」
 「わからないのかい?」
 そう言って彼は笑って見せたが、今のなるほどくんとあまりに違うせいで、それが彼の見せる表情の中で一番鳥肌の立つものだった。
 「ぼくも昔・・・”ぼく”に会ったんだよ」
 そのことばで、彼に先ほど見せられた”予言”を思いだした。それはたしかにそうだ。・・・つまり、今外で電話をしているなるほどくんも、いつかこの日この時に帰ってくるのだ。うううフクザツ・・・。
 「そのとき”ぼく”はきちんと帰っていった。まあそこがちゃんとぼくの元いた場所かはわからないけれど、少なくともそのときの”ぼく”は帰るためにじたばたしたりはしなかった」
 「じゃあ、・・・これからなにが起こるのか・・・みんな知ってるんだ」
 「その通り。ぼくはそれに従って動いているだけだ。ぼくが見た、その通りに」
 静かに目をつぶってうわごとのようにつぶやく目の前のなるほどくんに、あたしはふと違和感を覚えた。
 「なんで?」
 「なんで・・・って?」
 なるほどくんは、言いながらゆっくり目を開いてこちらを見た。
 「どうしてわざわざそんなことをするの?」
 「そりゃあ・・・過去が変わってしまったら、なにが起こるかわからないじゃないか」
 そのセリフはもっともだったが、あたしは見てしまった。彼が一瞬目をそらすのを。
 「うそでしょ」
 にらみつけながらあたしが言うと、なるほどくんはまたあの寒気のする笑顔を浮かべてこたえた。
 「そのうちわかるよ」
 その言葉が合図だったかのように、扉が開いた。



06

 とびこんできたなるほどくん―もちろんスーツの―は明らかに様子がおかしかった。
 そう思った理由の一つを挙げるなら、彼のその態度だった。
 じっとしているのがいたたまれないようで、あわただしく部屋の中を歩き回っている。せわしなく動き続けているせいであちこちに足をぶつけているのだが、まるで気にならないようにまた歩き出してしまう。
 「ちょっと、ちょっと」
 あたしはなるほどくんの腕をつかんで無理矢理引き止めた。
 「ほら、・・・お客さんもいるんだし」
 あたしとしてはソファに腰掛けた彼を客だとはちっとも思っていなかったが、なにも知らないなるほどくんにはそれで十分だった。
 今度は机のところまで行ってようやく座り、両手で顔を覆った。
 あたしは、ソファのなるほどくんだけに聞こえるよう小さなため息をついた。なんでこう厄介ごとが増えていくんだろう!
 そのとき、静かな声が響いた。驚いたことに、その声は年長なるほどくんがスーツの彼に話しかけている声だった。
 「そう気に病むことはない」
 言われた方は跳ねるように顔を上げた。この部屋に戻ってきてはじめて彼がいるのに気付いたような顔だ。
 「ケンカぐらいよくある話だ」
 あたしは呆然とニットの男を眺めていた。なんの話をしているのだろう。まるでわからない。しかし、言われているなるほどくんにとっては事情が違うらしく、見る見る顔色が変わっていく。
 「なんのことですか・・・」
 明らかに無理に声を出しているのがわかった。これではむしろ発言者の意図をきっちり理解していると言っているようなものだが、それでも声に出さずには居られないようだった。
 「でももし、君に現実をうけいれる器がないならやめたほうがいい。必ずうまく行かなくなる。大事な時計が壊れたりね。自分に嘘をつき続けるのはお互いのためにならない」
 そういえばいつの間にか時計が変わっている、と思っていると、スーツのなるほどくんはいよいよ顔を青くしてうろたえだした。あたしには占い師の忠告のようなとりとめのないものとしか聞こえないこの話の真意が、彼にだけは正しく伝わっていることの証明のようだった。
 動揺を必死に押さえながら彼は言い返す。
 「なにか・・・・・・勘違いをしているんじゃないですか?」
 ふう、というため息は年長の男のものだった。
 「そういう態度が自分をだますっていうことなんだ。不幸になるのは、自分だよ」
 「なんにもないです。・・・・・・あなたが思っているようなことは」
 なるほどくんの声には”もう黙れ”という否定が強く表れていた。
 すると、今度こそニット帽の男は微笑んだ。あたしの背筋を鳥肌が這い昇った。
 「男の恋人がいるってこと、バラすよ」
 なるほどくんが、痙攣するような動作で後ろへ下がった。
 今まで見たことのあるどんな凶器よりも鋭いそのセリフは、青ざめたなるほどくんの心臓を的確にえぐったようだった。
 「そんな・・・・・・・!」
 あたしは声を張りあげた。言われたほうにではない、言った方の男にだ。
 ―自分のことじゃないか。
 あたしはニット帽の男を鋭くにらみつけたが、彼はあたしではなく落ち着かない様子のなるほどくんを見ていた。そのなるほどくんはうつむいて唇を噛んでいた。
 凍り付いた空気に全員の緊張が渦巻いているようで、息が詰まった。誰もなにも言わずに時間だけが過ぎていくのが肌で感じられた。なるほどくんのいまだに色の戻らない顔を見て、あたしも心中で苦虫を噛む。この”未来から来た男”はこんなことをするためにここへ来たのか?昔の自分の一番やわらかい場所を握りつぶすために?
 なにを考えてかは知らない。だが、こんな酷い――。
 「・・・言ったらいい」
 それはあまりに突然で、あたしは驚いた。どちらの声かと顔を上げると、スーツのなるほどくんが顔をまっすぐ年長のなるほどくんに向けて話しているのが見えた。さっきまでの動揺は微塵もなく、ただ目の前の男にはっきりと意志を示そうと言葉を吐き出していた。
 「言ったらいいんです。あなたの知ってることを。なにも・・・恥じることなんか、ないです」
 すると、ニット帽の男はくるくると笑って、老獪な自分に立ち向かおうとする若い自分を見た。
 「本当に?」
 「・・・・・・当然です」
 なるほどくんはそこまで言って大きく息を吸って、吐いた。ずいぶん気を張っていたらしい。震えもおびえもどこにも見られなかったが、天井を見た顔の真っ白い色だけはそのまま残った。そして彼はそのままくるりとドアの方を向いた。
 「なら、行ってやったらいい」
 年をとった自分が後押ししてくる言葉も最後までは聞かず、なるほどくんはドアの外へ飛び出していった。
 微笑む男と、納得のいかないあたしを残して。
 



07

 「実はね、この時付き合いはじめだったんだ。御剣とぼくは」
 真綿にくるんでいた秘密を、おぼつかない手で引っぱり出すような口調だったが、あたしに限ってそんな配慮は必要なかった。
 「知ってる」
 「え・・・知ってたの・・・?」
 出会って初めて年長のなるほどくんが驚いたので、あたしは少なからず得意になった。
 「あたしが、なるほどくんと御剣検事のことに気付かないはず、ないじゃない」
 笑って言うと、それもそうだと微笑み返された。
 もうこの笑い方にも慣れていた。もとから、今のなるほどくんと食い違っているだけでおかしいところなどなかったのだし、結局のところ、どんな人でも長い歳月の前にはどこかしら変えられてしまうものだ。よくよく見たら、彼の笑顔は幼い子供に向けるような屈託のないものだった。
 「でも怖かったんだ。理由は色々あったけど、なにより周りにばれやしないかびくびくしてたんだ。いっぱい嘘もついたし、こんなことやめようと思ったことだって一度や二度じゃない。いつもあいつに会いたかったけど、それと同じくらい、どうしてあんなやつがこの世にいるのかとも思ったもんだよ。だから・・・ケンカも絶えなかったし、真宵ちゃんにも言えなかった」
 「うん」
 静かに頷く。
 「前までは電話、いつもなかでとってたもんね」
 じつのところ、あたしはふたりがつきあうのにずっと反対だった。ケンカばかりしているのは知っていたし、彼がこの関係に自信を持っていないのは明白だったからだ。万人に認められるのが無理なのは当然だが、あたしにも言えないような関係が健全だとは思わなかった。それでも、ひた隠しにする彼らにそれを言うすべはなく、あたしの怒りは静かに蓄積していった。
 「でも、ある日事務所に変な男が来てね」
 彼はすそを摘んで「こんな格好の」と言って笑った。
 「キョーハクして帰っていったんだ」
 「今思えば、この日じゃなきゃいけなかったんだ。すぐまわりがごたごたしてきて・・・・・・一人だけじゃ多分、乗り切れなかった」
 なんの話だろう、と思ったが聞かずにおいた。未来予知に興味はない。
 「ずっと変だなあ、と思ってたんだ。気付くのに七年もかかった」
 「ひょっとして、今日だったの?あれが自分だって気付いたの」
 彼は恥ずかしそうに首筋をかいて、「うん」と言った。
 「それで―ふたりはうまくいくの?」
 何だか恋愛映画の筋を聞き出すような口振りになってしまった。すると、あたしの知っている彼よりも年を重ねた目の前の男は、ムキになって赤くなったりせず、口に指を当てて「それはお楽しみ」と言った。
 「ケチだね」
 「それほどでも」
 そうは言ったが、お互い彼らの関係がよくなっていくことを疑ったりはしていないのは明らかだった。
 「さて、帰らなきゃね。そろそろ」
 「あ・・・・・・帰っちゃうんだ」
 結局、この目の前の彼と、走り去っていったなるほどくんが同一人物だという感覚的なものを得られなかった。理性では同じ人間だとわかっているのだが、隣に並んでいるだけではただのよく似た別人だ。おかげで、行ってしまったらもう会えないのだと思って奇妙な寂しさにおそわれた。それがわかったのかなるほどくんは、すっかり愛嬌の染みついた笑顔を向けてきた。
 「なに、七年経ったらまた遊びに来てよ」
 「そう・・・だね。うん、じゃあ、また七年経ったら、ね。」
 そう言って、立ち上がって歩いていくなるほどくんについていきながら、あたしはふと疑問を口にした。
 「どうやって帰るの?」
 「さあねえ」
 「え」
 彼は部屋のすみを歩いて、小さな納戸のノブをつかんでいた。しかし、開けたところにはせいぜい人一人くらいが入り込めそうな空間を残して、あとはがらくたが積み上げられていた。もちろんこの中にタイムマシンが入っていたりはしない。
 「こ、この納戸に秘密が?」
 「・・・・・・・・・」
 なるほどくんはがらくたを見上げたまま黙っていた。
 まさか、この期に及んで戻れない、なんてことが・・・・。
 すると突然、入り口の扉のほうから物音が響いてきた。あたしは無意識に扉まで駆け寄り、ドアノブをつかんだ。そのとたん、ノブは外から強い力で回された。するりと回ったノブのおかげでドアは簡単に開いたが、あたしは固く握りしめてドアノブを離さなかった。
 「あ、・・・・・・、・・・真宵ちゃんか」
 なるほどくんだ。息を切らせているが、さっきの音は彼が走っていた音だったらしい。
 「さっきの・・・ええと、ぼくの親戚だって人、まだ居る?」
 「な、なに、いきなり」
 「思い出したんだよ・・・!さっきあの人、ぼくの時計が壊れたって言っただろ。でも、おかしいんだよ。それ知ってるのはぼくだけなんだ。あの人・・・・・・いったい誰なんだ?」
 そう言いながらも彼はドアノブを引っ張るのをやめなかったが、あたしだって負けるわけにはいかなかった。
 ―なるほどくんが、今気づくなんて・・・。
 さっき聞いた話の通りなら、彼があのニットの人物が自分だというのに気づくのに、彼の時間で七年が必要なのだ。なにより、その七年後の人物はまだ納戸の入り口あたりでもたもたしている。このふたりが今出会ってなにが起こるか、あたしには見当がつかなかった。
 しかし、そんなあたしの葛藤をよそに、圧倒的なウエイトの差によって最後の砦は破られた。
 すぐさま駆け込もうとするなるほどくんを止めようとしたが、それもするりとかわされあっと言う間になかまで入られてしまう。
 なるほどくんは部屋を見渡して目的の人物を捜し続けていたが、その目が奥の納戸のところで止まった。
 なるほどくんとなるほどくん、ふたりの目があう。
 すると、ニット帽のなるほどくんが、素早く納戸の戸のなかに消えた。
 あたしののどからあっと声がする。そんな逃げ道のないところでは隠れても意味がない。鍵もかからないので時間稼ぎすら出来ない。まだ出口まで走って立ち向かうなるほどくんを振り切った方が安全だと言える。戸を開けようと手をかけるなるほどくんを止めるために、駆け足で近寄ったがすでに遅く、なるほどくんがなかを覗き込んでいた。
 あたしはなるほどくんが七年後の彼を詰問する様を想像して一人で青くなった。しかし、いくら待ってもそうなる気配はなかった。
 「あ、あれ?」
 なるほどくんの、どこか間抜けな反応に、あたしも戸のなかをちらりとのぞき見た。―誰もいない。
 「・・・・・がらくたの山は?」
 そう言いながら、そんなことはあり得ないとわかっていた。あたしがさっき見たときから、なにも動かされたあとがなかったからだ。あのニット帽のなるほどくんは、どうやら無事に帰れたらしかった。
 



08

 「あの人はね、占い師さんやってるんだって。なんでも当てちゃうの。亡くしものとか、絶対見つかるんだって」
 例の失踪があったあとも興奮の冷めやらないなるほどくんに、あたしは口先三寸の解説をしていた。今日一日の間に、あたしはずいぶん嘘のつき方が巧くなったのではないかと思う。
 「時計が壊れたかどうかなんて、あの人にとってはイッパツなんだよ」
 「う、うちの親戚にそんな凄いヒトが・・・」
 「そう。でも、妹さんにお店の権利を狙われてたり、弟さんのもってる由緒ある占い道具を取り合ったりして大変みたいだね」
 一応未来のなるほどくんが置いていった複線を回収しておく。適当につなぎ合わせたおかげで凄い話になってしまった。
 「へえ・・・それでさ、そろそろ教えてよ。あの人どうやって消えたの?」
 「ああ、ま、そのうちにね・・・」
 あたしは静かに立ち上がって納戸の方を眺めた。
 いったいどうしてこんな奇跡が起こったのかは知らないし、仕組みなんてものがわかる日は来ないだろう。それはしょうがない。
 しかし、最後に年長なるほどくんが納戸の前で待っていたのは、きっとわざとだったのだ。彼は「多分未来へ帰れる」と言っていた。ということは、彼もきっとあの自分の消失シーンを見たのだろう。そして過去へやってきてようやくあのとき”自分”が未来へ帰っていったということに気づいたのだ。もしそのことに気づかなければ、彼の第一の目的は”帰ること”にすりかえられて、本来の目的が果たされなかったのではないか。なるほどくんがあのシーンを目撃するのは、間違いなく必然だったのだ。そして今ここであたしに消失のトリックを訪ねているなるほどくんも、七年後にまた今日にやってきて、また未来へ帰るのだろう。自分で何を言っているのかよくわからなくなってきたが。
 しかし、すべてのなるほどくんが未来の自分を追いかけていったのだとしたら・・・その追いかけっこは無限の未来から無尽蔵の過去へと続いているのだろうか。気が遠くなる。相手が無限である以上、”卵が先か、鶏が先か”なんていう論争が無意味なのは明白なので、あたしはすぐにこの時間の連鎖について考えるのをやめた。
そして、代わりと言ってはなんだが、小さな聞き慣れたメロディが思考に割入ってきた。
 なるほどくんは青い携帯のディスプレイを見て微笑んだ。その顔はどこか七年後の彼に似ていて、少しばかりあたしをほっとさせた。
 「ほらほら、出るの」
 「わ」
 慌てて隠そうとするが、全く意味がない。
 「切られちゃうよ。ねえ、出るの?出ないの?」
 「で、出るよ」
 そのまま外へ出て行きそうになるなるほどくんを呼び止めた。
 「いいよ、ここで喋ってても」
 「・・・・・・」
 しばらく逡巡していたようだったが、覚悟を決めたのかドサリと腰掛けて通話をはじめた。内容は、聞かないでおいてあげた。
 なるほどくんはここに戻ってくるまでの短い間にちゃんと御剣検事に会っていたようだった。どんな話でどんなやりとりだったのかは、やはり知らない。それでも今こうして電話で話している彼の顔を見れば、七年後からのメッセージがちゃんと役に立ったのだろうということがわかる。
 時間が戻るなんてことはあり得ない。だが、そのあり得ないことが起こらなければ、あのなるほどくんのたどったような未来は訪れないのだ。なら、きっとこれでよかったのだ。
 あたしは心の中で積み上がった怒りを突き崩し、そっとふたりを許した。幸せになれよ、なんてね。
 なるほどくんたちの会話は意外と早く終わった。
 「あれ、もういいの?」
 「聞いてるなよ・・・」
 「聞いてなくてもわかるって」
 そのままそっぽを向いてしまったなるほどくんの背中に、あたしはそっと話しかける。
 「今度、ちゃんと紹介してね。なるほどくんのカレシ」
 「ううん」
 するとなるほどくんは恥ずかしそうに首をかいた。
 「まあ、そのうちにね」
 





end


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