私には愛するふたりのパパがいる



01

 がらくたに囲まれたいかにも狭苦しい部屋に、さっきからカリカリという音が止むことなく響いていた。
 と、思った瞬間それは止まった。
 「オドロキくん」
 「ハイッ」
 返事をしたのは若いほうの男だった。彼が背筋を伸ばして声を張り上げているのには大いに訳があった。
 実は目の前の男がさっきから取り組んでいるのは、自分が先頃突破した司法試験の試験問題なのだ。そしてこの男こそは自分の大先輩に当たる、元弁護士・成歩堂龍一だった。不幸にして弁護士バッジを奪われてしまった彼に、再度試験を受けてみたいと請われて勉強を見ていたところなのだが、彼が非常に有能な弁護士だったというのはあまりにも有名な話だ。何とか仕事を始めたばかりの自分としては、とにかく彼がしてくるような質問に正しく答えられるのか、そればかりが気になっていた。
 構えて待つ王泥喜の前で、成歩堂は自分のノートを指差した。
 「ベンゴシの”ゴ”ってどういう字だっけ」
 「・・・・・・」
 「ねえ、どういう字?」
 「あの・・・そっからですか」
 「そうだよ」
 王泥喜は静かに頭を振った。心配して損した、と思ったが、何で自分がこんなことのために損をしなければならないのかと思うと情けなくなった。
 仕方なくペンを握りしめて成歩堂の近くに歩み寄った。
 「そりゃベンゴシっていったら・・・」
 しかしそこでノートにのせたペン先が止まった。
 はて、どういう字だったか。
 「え、なに?書けないの?現役のベンゴシなのに?」
 ・・・書けなかった元・ベンゴシに言われたくない。
 「あ、そうそう、こうですよ!ごんべん!こうですよ」
 弁護士、とはみ出さんばかりの字で書いて見せた。
 「・・・なんだ、書けたのか」
 「弁護士バッジを見たんです」
 え?と成歩堂が王泥喜を見た。
 「弁護士バッジに、漢字で”弁護士”なんて書いてあったっけ?」
 「何言ってるんですか?証拠品のタイトルのところに、ほら。”弁護士バッジ”って」
 「・・・・・・」
 突然黙り込まれてしまったので、王泥喜はおそるおそる相手の顔を覗き込んだ。
 「どうか・・・しました?」
 「・・・・・・いや。そんなメタな会話でいいんだ、と思って」
 「なんのことですか?」
 いやいい、とやる気のない顔で答える成歩堂は、しかしまたすぐにぶちぶちと愚痴りだした。
 「なんか、ヤル気が起きないんだよね。初めて受けたときは、こう義務感みたいなもんがあったんだけど」
 「ぎ、義務感って。みぬきちゃんがいるじゃないですか!あの子のためにも、こう、父親としてまっとうな職業に就いたらどうなんですか!」
 ううん、という返事はいかにもいいわけを探している風だった。
 「みぬきなら大丈夫だよ。あの子はしっかりしてる。何よりぼくより稼いでる」
 なあみぬき、と成歩堂が部屋の奥に呼びかけると、「うん」と返事が返ってきた。
 「みぬきちゃん、いたの?」
 王泥喜が振り返ると、今度はすぐそばで「ううん」と別の返事が返ってきた。
 「今のは、ぼく」
 「・・・なにやってんですか」
 ちょっと、うまいじゃないか。
 「もー、駄目だよ。無理だって。二回目なんか」
 見れば机に突っ伏している。人の弱音とはこんなに鬱陶しいものだったかと思ったが、それは黙っていた。
 とは言え、そこでちょっとした好奇心が湧いた。実のところそれは、いつか聞いてみようと思っていたものの、今日まで機会に恵まれなかった類の質問だった。今しなければいつするのだろう。すると、それは口から自然に出てきた。
 「成歩堂さんは、どうして弁護士になったんですか?」
 すると、成歩堂の動きがぴたり、と止まった。これは予想外のリアクションだった。せいぜいはぐらかされる程度のことしか想定していなかったのだ。
 「な、ないしょだよ」
 「ないしょって・・・。成歩堂さん、いくつ」
 「言いたくないんだよ」
 「なんなんですか。気になりますよ」
 「ぼくは気にならないね」
 そりゃそうだ。
 「そこまでじらしたら、言うもんでしょ、普通」
 成歩堂は崖っぷちに追いつめられた多重債務者のように嫌そうな顔を浮かべたが、特に反論はしてこなかった。
 「ここはほら、前途ある後輩に、昔話をしてもバチは当たりませんよ」
 成歩堂はますます追いつめられた顔をして見せたが、そこで聞き慣れた声が割り入ってきた。
 「ただいまー」
 みぬきが帰ってきたのかと、王泥喜は振り向いた。しかし、そこにはがらくたに埋め尽くされた空間だけが広がっていた。
 「あれ」
 なんだったのだろう、と首を成歩堂の居た方に戻すと、そこはすでに空っぽだった。
 



02

 「で、逃げられちゃったんですか」
 あきれたように言うみぬきは、手に持っていた煎餅をバリンとかみ砕いた。
 結局成歩堂は勉強が進まなくなったとたん、巧妙な手口で逃げ出してしまったのだった。自分から教えてくれと言っておきながら逃げられたときの、あのどうしようもない気分をなんと言ったらいいのかも王泥喜にはわからなかった。
 「なんとかしてよ。・・・君のお父さんだろ」
 「逃げ足だけは早いんですよ、あのヒト」
 もはや尊敬だとか思慕の念は一抹も感じられないセリフだったが、おおむね予想通りのものだった。
 「どうにかして勉強させなきゃ」
 「どうにかして勉強させなきゃいけないことなんですか?」
 口調をまねながら言ってきた彼女に憤慨しながら言い返す。「あたりまえだろ」
 「はあ」
 「成歩堂さんにみたいな人がピアニストなんて続けてていいわけがないんだよ」
 「ああ、へったくそですもんね、ピアノ」
 そういう意味ではない。
 「あのね、どれだけの人が成歩堂さんの弁護で窮地を脱出したと思う?彼みたいな人が法曹界を追われたのは、こう、社会的な損失だと思うわけだよ。成歩堂さんにしたって、唯一の長所をたった一回の失敗で奪われて気が済むわけがないだろ」
 「それ、あれですよね、パパには他に能がないって言いたいわけですよね」
 実はそういうことだ。
 「まあたしかに、みぬきとしてもパパがこのまま一生ピアニストだったらと思うとぞっとしますね。ここは成歩堂なんでも事務所所長として、弁護士がもう一人増えるのも悪くないと思います」
何しろ人件費がかからないからな。と、思ったが口には出さないで済ました。
 「それにしても、その肝心の成歩堂さんはどこにいるの?」
 「え?」
 みぬきは目をぱちくりとさせた。
 「わからないんですか?自分が逃げられたのに?」
 「逃げる瞬間を見てないんだぞ。どこに居るかなんて知らないよ」
 みぬきは、うーん、と腕組みをして考えていたが、時々思い出したように煎餅にかじりついていたのでどこまで本気で考えていたのかは定かでなかった。
 「プチ家出でしょうか」
 「ぷ、プチって」
 「確かにプチって顔じゃないですね」
 顔の問題か?
 「あ、ほら、ピアニストらしくどこかのピアノで憤懣やるかたない思いを音にぶつけているのかもしれません!」
 「悪いけど、それはないと思うよ。絶対」
 「まあ、みぬきもそう思いますけど」
 なら言わなくたっていいんじゃないか。
 「難しいですね。何しろ微妙なお年頃ですもんね」
 「成歩堂さんも、33歳で15歳の娘にビミョウなオトシゴロって言われる日が来るとは思ってなかっただろうね」
 再びみぬきは腕を組んで思いをめぐらせた。今度は煎餅は手でいじるだけだった。
 「じゃあやっぱりあそこかなあ」
 「・・・・・・」
 「どうしたんですか?オドロキさん」
 「思い当たるところが有るんなら最初に言ってくれよ!」
 「まあまあ。人生はやるせなさとの戦いですよ」
 聞いたことのない格言を並べながら彼女は帽子を取りだした。
 「どこか行くの?」
 「もう、だから行くんじゃないですか。”あそこ”に」
 彼女はふわりと帽子を頭にのせると、ついて来いと言わんばかりに部屋を飛び出していった。
 あとには呆気にとられた王泥喜だけが残された。
  



03

 「こんにちはー。お邪魔します」
 御剣怜侍はその少女の声に聞き覚えがあった。他の誰かならいざ知らず、彼女の入室を拒む理由はない。そう思って「どうぞ」と声をかけて、扉のほうを見た。
 「やあ」
 「なっ・・・」
 そこに立っていたのは、どこからどう見ても”他の誰か”だった。
 「いやあ、引っかかるもんだね、みんな」
 「なんなんだ、今のは」
 「似てただろ」
 そう成歩堂龍一は胸を張ったが、父親が娘の声まねが巧くてなんの自慢になるというのだろう。
 御剣はため息をついて「いま、忙しいのだが」と言ったが、成歩堂は気にとめた様子もなく「そう」と返した。
 「ぼくは忙しくないんだ」
 御剣がぶち切れようかと思った瞬間、ドアが乱暴に開け放たれた。
 「パパ!それはみぬきじゃないの!騙されないで!」
 「・・・・・・?」
 みぬきと、思いっきり不信な顔をした王泥喜だった。
 「あれ?」
 どこか白けた顔をして自分を見ている男たちを見て、みぬきはようやく自分のセリフが場違いだったことに気づいた。
 「いま、ぼくがバラしたところだったんだけど」
 「ありゃー。ちょっと踏み込むのが遅かったですね」
 一気に空気が弛緩したのを見計らって、王泥喜もつっこむ。
 「それに、いまのじゃ成歩堂さんが騙されそうになってるみたいじゃないか」
 「え?」
 王泥喜は、いまいちわかっていない顔のみぬきに説明する。
 「だから、”パパ、騙されないで”ってなことを言ったじゃないか。でも、騙したのが成歩堂さんで・・・」
 言っててなんだか馬鹿らしくなってきた。別にわざわざ説明して面白い話ではない。
 みぬきは目をぱちくりとさせた。
 「はあはあ。それは勘違いがあるようですね、王泥喜さん」
 一瞬みぬきの方の勘違いだと思ったが、彼女の諭すような目は王泥喜を見ていた。
 「お、オレ?」
 「そうです。パパっていうのは」
 みぬきは、そこで手をすっと広げて見せた。どうやら成歩堂と御剣を指している。
 「このふたりのことです」
 みぬきは誇らしげに言ったが、言われた方としてはよく意味が分からなかった。わからないまま後ろに控えたふたりの男を見ると、ふたりとも眉一つ動かさずこの騒ぎを見守っていた。
 「はあ。そちらの方も、その、みぬきちゃんのパパでいらっしゃる」
 「御剣パパ。検事さんなんですよ!」
 難解、という言葉の意味を初めて知った小学生のような気持ちで、王泥喜は目の前の少女を見た。
 「つまり、ええと、どういう意味?」
 「意味も何も」
 王泥喜がいったい何をわかっていないのか、そのところがうまくみぬきに伝わっていないようだった。おかげで、たった一言で済むその言葉を探し出すのにいくらか時間を要した。その間も、後ろの男たちは静かな表情で沈黙を守っていた。
 「そうですね、ううん。・・・あ、そうだっ」
 みぬきは拳で手を叩いた。ちょっと古典的に過ぎるのではないかと王泥喜は思ったが、黙っていた。
 「両親です」
 ぼんやりと、両親って言葉に検事と元弁護士という意味があるなんて初めて知ったな、と思った。
 「このふたりは、そう。みぬきの両親です」



04

 後ろのふたりの男たちは相変わらず何か話し出す気配はなかった。
 それで仕方なく、王泥喜から話しかけた。
 「それはー、つまりー、いわゆる、夫婦、というやつ」
 「夫婦、だとおかしいですよね。夫夫、が正しいのかなあ?」
 何か言っているみぬきを、王泥喜はとりあえず無視した。
 「その、つまりお二人は・・・」
 「そこまで」
 その声は成歩堂だった。
 「じゃ、オドロキくんも来ちゃったことだし、ぼくは帰るね」
 止める間もなく、成歩堂は風のように軽やかに御剣の執務室を出ていった。
 王泥喜がしばらく一人で口をぱくぱくさせていると、みぬきがあとを接いだ。
 「ふたりはコイビト同士だったってことです。ねっ」
 マジかよ。
 みぬきにつられて御剣を見ると、眉間にしわを寄せて黙り込んでいた。ひょっとしてこれはタブーだったのではないだろうか。
 「またまた、パパったら照れちゃって」
 て、照れているのか。
 「君は成歩堂の弟子、ということになるのか」
 その、照れているらしい人物に初めて声をかけられて王泥喜は慌てた。
 「み、みたいなもの、とは言えるでしょうね」
 なんだそれは、と言って御剣はみぬきを見たが、みぬきも「みたいなものです」と言ったので、そこで追求を諦めた。
 「まあいい。・・・しかし彼はもう職を退いて七年だ。勉強になるとは思えんな」
 百も承知だ。
 「彼もそろそろ・・・いや、なんでもない」
 「な、なんですか?」
 意味深な前ふりが流行っているのだろうか。
 「なんでもない。忘れてくれ」
 こう言われて忘れられる人間がいたらお目にかかってみたいものだ。するとわきから威勢の良い返事が響いた。
 「はい」
 みぬきだった。
 「忘れました」
 いたよ。
 それを聞いて、御剣ははぐらかすように話を続けた。
 「仕事は順調だろうか」
 「うん、パパ」
 みぬきと御剣はいくつか応答を繰り返していたが、成歩堂とみぬきの親子ぶりよりは自然に見えた。
 ―父親がちゃんと働いているように見えるからだな、きっと。
 自己完結しながらも、入り込めない雰囲気がちょっと悔しいような、淋しいような気がした。
 「給食費は、ちゃんと払えているのだろうか」
 「先月は危なかったけど、今月はパパのジュースを切りつめてるから大丈夫だよ」
 いや、それほど淋しくもないな、と王泥喜は考えを改めた。
 御剣は、はあとため息をついてから札入れをだして、「お小遣いだ」と言って何枚かの札をみぬきに手渡した。
 「わあ、これで靴下を新しくできるよ!すごいでしょ、王泥喜さん」
 ・・・うるさいオレをその会話に巻き込むな、と思いながら王泥喜が天井を眺めていると、御剣がどこか遠慮がちの声を出した。
 「・・・その、成歩堂は元気にしているだろうか」
 わざわざ聞かなくても今までのあの態度を見ていたらわかりきっていると思う。そう同意を得ようとみぬきの方を向くと、彼女はどこか意地悪そうな顔で御剣を見ていた。
 「なんで、そんなこと気になるの?ねえ、なんで?」
 御剣はまた深く眉間にしわを刻んだ。凶悪な面相になって、はっきり言って怖い。今度こそ怒らせただろうとみぬきの襟首をつかんで逃げようとしたが、その前にみぬきが声をたてて笑った。
 「冗談。元気だよ。そんなに照れないで、パパ」
 て、照れてるのか・・・?
 どうやら会見はそこで終わりだった。と、いうか御剣は仕事中だったのだからずいぶん邪魔してしまったことになる。それに気づいて王泥喜は顔を青ざめさせた。
 先にドアから出ていくみぬきに着いていこうとしたら、後ろから御剣が近づいてきて王泥喜はまた慌てた。ドアに張り付いて、何を言われるのかと構えていると、御剣は少しだけ表情を和らげた。
 「ありがとう」
 あ、ありがとう。何を?
 「みぬきを連れてきてくれて。やはり・・・たまには会いたいものだ」
 御剣のような人物からこういったセリフが聞けるのは滅多にないことだったが、王泥喜にはそんなことを知る由もなかった。
 ひたすらに複雑化する人物相関図を把握するのに手一杯だったので。



05

 「おさらいしようか」
 「はあ」
 なにをでしょう、と言うみぬきにオレはいつまでキレずに付き合っていけるだろうかと王泥喜は考えた。
 ここはまだ検事局の建物の中で、先ほどの御剣の執務室と同じ階だった。
 「ええと、成歩堂さんと御剣検事、あのふたりは、その、夫婦。男同士だけど」
 周りに聞こえてなけりゃいいけど。
 「ちゃんと証明証書を作ってあるから、法的には殆ど夫婦なんですって。どういう意味だか知りませんけど」
 ううん、とうなって考えた。まあ、人の性的指向は様々だ。そこは突っ込むまい。たぶん泥沼になるしな。
 「それだけで両親とはあんまり言わないだろ」
 みぬきが、父親の法律だけの伴侶を、”パパ”と気安く呼ぶとは思えなかった。
 すると、みぬきは例のまぶたをぱちくりとさせるリアクションを返してきた。
 「一緒に住んでたんです。三人で」
 えぇ。
 「ちょっと壮絶だね、それ」
 「楽しかったですよお。ほら、右手を成歩堂パパ、左手を御剣パパに握ってもらって、三人で並んで歩くんです」
 王泥喜は、試しに想像してみた。
 「ロズウェル事件で連れ去られるリトルグレイって感じかな」
 「テキトーなこと言ってくれますね、王泥喜さん」
 みぬきはちょっと憤慨したようだ。手をふるふると振り回している。いくつなんだ、お前は。
 めんどくさくなってきたので少し話の方向を切り替える。
 「ところで気になってることがあるんだけど」
 「ごまかさないでください!」
 とりあえず、無視する。
 「どっちも”パパ”って呼んでるの?」
 それを聞くとみぬきは、ふっと顔を下げた。
 「そうです。・・・それが、原因だったんです」
 別に話の続きを聞きたいわけではなかったが、みぬきがいつまでも顔を上げないのでしかたなく、「なんの」と声をかけた。
 「別居の」
 「べっきょ」
 ここに来て突然の急展開だ。
 「みぬきが、御剣パパにプリンをあげようと思って”パパへ”って書いて置いておいたら、成歩堂パパが食べちゃって・・・。それからなんです。御剣パパが出て行っちゃったのは」
 ・・・。
 まさか、な・・・。
 「ちょ、ちょっと待って。じゃ、なに、つまりあれだ。ふたりは元恋人同士で、結婚してて、みぬきちゃんってムスメもいて、ムカシ三人で同居してて、で、今は別居中、と」
 「そう言ってるじゃないですか。さっきから」
 言ってないと思うな。
 世の中理解の及ばないことってあるものだなあ。そんな思いが王泥喜の心中を駆けめぐった。
 「だから御剣検事はさっき久しぶりにみぬきちゃんに会ったって言ってたんだね」
 「言ってました?そんなこと」
 そうか、みぬきは聞いていないのだった。
 みぬきのことを話していたときの、御剣のあのほっとしたような顔を思い出した。
 離れていても、血のつながりがなくても、やはりムスメのことは気になるのだ。そう思ったら、思わず王泥喜の顔もほころんだ。
 みぬきはそんな王泥喜を見てきょとんとしていた。
 「変ですよ。その顔」
 うるさいな。



06

 さて帰ろうか、と玄関口を通ろうとすると目の前に先ほど見たばかりの人影を見つけた。王泥喜としてはこっそりやり過ごそうと思ったが、「パパー!」と大声をだしてみぬきが駆け寄っていってしまったので、結局王泥喜の意志はぜんぜん反映されなかった。
 今日はこんなんばっかりだな、と王泥喜が心の中で愚痴っているとふたりは会話をはじめていた。それだけならともかく外に向かって歩き出したので、置いて行かれまいと走らざるを得なかった。
 「もう仕事は終わったの?」
 「うム・・・。ふたりとも、まだ残っていたのか」
 そんなに長い間話し込んでしまったのか。ぜんぜん気がつかなかった。
 「そう言えばパパはあのあと見かけなかったなあ。ほんとに逃げ足早いんだから」
 「・・・あれは逃げてきていたのか。なんで来たのだろうかと思った」
 その言葉でようやく、王泥喜は自分が何でここまでやってきたのかを思い出した。裏返すなら、そんなことすら忘れてしまうほど衝撃的な情報ばかりを聞いていたということだ。つかれる。
 「それが、聞いてよパパ。パパったらね、勉強するのが嫌で逃げちゃったの」
 やっぱり混乱するな。分けた方がいいんじゃないか。
 「勉強・・・?」
 「試験勉強だよ。司法試験の」
 御剣の足が一瞬止まった。しかし王泥喜が気にとめたのはそちらではなかった。成歩堂は勉強が嫌で逃げ出したのだったか?いや違う、たしか・・・。
 「成歩堂さんは、なんで弁護士になったんですか?」
 今度こそ御剣はそこで足を止めた。しかたなくみぬきと王泥喜もその場に止まった。
 「・・・本人に聞けばいい」
 「答えてくれないんです。・・・と、いうかそれを聞いたら逃げ出してしまったんです」
 「それ、みぬきもいつか聞こうと思ってたんだ!」
 答えるまでここを動かない、という勢いの四つの瞳に見つめられて御剣はたじろいだ。
 「ほ、本人が言わないなら、私にもわから」「嘘でしょ!」
 みぬきは堂々と指摘して見せた。
 「みぬきには嘘をつけないの。知ってるでしょ、パパ」
 偉そうだが、今のは誰でもわかると思う。
 「成歩堂さんは二度目の試験はやる気が起きないとか何とか言ってましたけど。一度目は義務感があったんですって。なんだったんですか?それ」
 すると御剣はますますたじろいだ。
 どうにも様子がおかしい、ということにみぬきも気づいたらしく、王泥喜と目を見合わせた。
 「何を知ってるの?パパ」
 御剣はしばらく視線を泳がせていた。落ち着くまで待とうかと思っていると、御剣の目が大きく見開かれた。
 「後ろ―!」
 慌てて王泥喜が振り向くと、そこには人通りの少ない道路が広がっている。
 いったいどういう意味があるのかともう一度御剣の方を向いた。
 すると、信じられないことに―。
 御剣は走って逃げ出してしまった。



07

 「もー、なんなの!」
 ドアは悲鳴のような音を立てて開いた。みぬきが蹴飛ばしたのだ。
 「いい歳して逃げてごまかすなぁっ」
 そこらへんは王泥喜も全く同感だった。あんな大人にはならないようにしよう。
 みぬきはしばらく肩で息をしていたが、ソファの上を見てきゃっと悲鳴をあげた。
 「い、居たの?パパ」
 「うん。居たんだよ」
 よく見たら、成歩堂はソファの上で寝転がるような姿勢でいた。ソファの背の影になっていたのだ。
 「また見つかっちゃったなあ」
 そう言って成歩堂は笑ったが、こんなところに隠れて見つかったも何もない。
 みぬきはしばらくじっと成歩堂を見下ろしていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
 「パパは、もう戻りたくないの?弁護士に」
 「なに言ってるんだ。こうして試験勉強しようとしてるだろ」
 机の上で開かれたノートには”弁護士”とだけ書いてある。
 「・・・もうやる気、なくなっちゃったの?」
 みぬきは両手をいじりながら、か細い声で聞いた。
 「昔試験を受けたときのことは忘れちゃったの?その時は猛勉強したんでしょ?でも、もうそのときのやる気はなくなっちゃたの?だからみぬきたちに話したくないの?」
 やけに心細そうな顔でみぬきは成歩堂の顔を見た。大きなその瞳が潤んでいるようにも見える。
 「どうしちゃったんだよみぬき」成歩堂はなだめるような口調で言う。「みぬきは弁護士じゃないパパの方がつきあいが長いじゃないか。もしなれなくてもなにも変わらないよ」
 それでもみぬきはうつむいたままだった。
 「パパは・・・御剣パパは」ひどく小さい声で続ける。
 「そう思わないかも・・・」
 王泥喜がぎょっとして覗き込むと、みぬきの口はへの字に曲げられていた。慌てて成歩堂の顔も見ると、おだやかな表情でじっとしていた。
 「どうしてそう思うの?」
 「だって・・・パパとパパはライバルだったんでしょ、法廷で、戦ってたんでしょ!凄かったってみぬきも聞いたもの。ねえ、王泥喜さん!」
 王泥喜は黙って頷いた。
 「パパがどうして弁護士になったかは知らない」
 みぬきの声はさっきから真剣そのものだった。
 「でも、次こそは御剣パパのために弁護士に戻らなきゃ」
 それを聞いて、成歩堂は少し意表を突かれた表情を浮かべて―それから笑った。
 「御剣のため?」
 「そうだよ。御剣パパは―待ってるよ。そうやって、すねて一人で居るのはパパだけだよ」
 みぬきは堰を切ったように喋り続ける。
 「ライバルが居なくなって、コイビトもなくして・・・御剣パパが可哀想」再び両手をぎゅっと握りしめた。
 「だからもう、御剣パパのために弁護士に戻らなくちゃ」
 しん、と静まり返った部屋で成歩堂はただどこか遠くを見ていた。
 「そうですよ・・・」
 おずおずと王泥喜も声をかけた。
 「御剣検事は、成歩堂さんのことを気にかけていました。もう、最初の試験とは違う理由で受けるべきなんですよ、・・・今度の試験は・・・!」
 成歩堂は下を向いて考え込む仕草をした。
 そう、彼のような人間はやはり正しい道に戻るべきなのだ。彼にはその才能があるのだから。
 前回の彼の受験理由が何だったとしても、今回は確かに御剣検事という待ち人が居るのだ。つまり、今度こそ彼は司法試験に受からねばならない。
 ふたりがかりの説得を受けた成歩堂は、すぐさま顔を上げた。
 「帰って」
 え。
 「もう帰りな、ふたりとも。また、明日ね」
 成歩堂は、有無を言わさずふたりをドアのところまで連れていって扉を開いた。
 「待って、パパ!」
 それでも食い下がるみぬきを見て、王泥喜は声を張り上げた。
 「ちゃんと考えてくれたんですか!?」
 「わ」成歩堂は耳をふさいだ。王泥喜の視界の端ではみぬきも同じようにしていた。「ちょ、ちょっと、声が大きい」
 「成歩堂さんは、弁護士に戻るべきなんです!」
 「だからね、その話はまた明日ね」
 「なんでですか!なんで今できないんですか」
 息を吸い込もうと、王泥喜は後ろへ一歩下がった。しかし敵もさるもの。その瞬間に目の前で扉は閉じられた。そしてあとに聞こえたのは、鍵をかけるガチャリという音だけだった。



08

 一人だけになって静けさを取り戻した事務所の真ん中で、成歩堂は後ろに向かって声をかけた。
 「もういいよ。出てきても」
 すると後ろのドアが開き、中から一人の人物が現れた。
 「あー、恥ずかしくて死ぬかと思った」
 そうつぶやく成歩堂に、「そうだな」と相づちを打ったその人物は御剣怜侍だった。
 「若いって怖いね」
 「怖いな」
 言ってからふたりでしばし笑った。
 「ぼくはまたお前のために弁護士にならなくちゃならないわけか」
 「そのようだな、どうやら」
 「なんなんだろうなあ、ぼくの人生は」
 「私としてはありがたいが」
 くそ、というセリフを聞いて御剣はまた笑った。
 「どうして黙っていた?」
 「言っちゃったら思い出しそうな気がしてさ」
 「まあな。思い出したな」
 「こう・・・悔しいじゃないか、別居中なのに」
 「そんなことだろうとは思った」
 「よく言うよ。同じことしておいて」
 「さて」
 忘れたな、と言う御剣を成歩堂は冷ややかな目で眺めた。が、御剣は気にせず話を進めてきた。
 「受けるのか、とうとう」
 「まあね。ごたごたも片づいたし」
 「あれから七年か」
 「うん・・・みぬきが大きくなってるわけだ」
 少し間を空けると、成歩堂は続けた。
 「あのバッジをもう一度つけたら、君は許してくれるのかな」
 「許すも許さないもないだろう。・・・みぬきが可哀想だ」
 「そうだ、可哀想だ。・・・じゃあ」
 ふたりは、一瞬目で頷き会った。
 「よりを戻す頃合いかなあ」
 「そうだな」
 やれやれ、と成歩堂が言うのを見て、御剣はソファに腰掛けた。
 成歩堂はちらとノートを見た。
 「やれやれ。また勉強か」
 「せいぜい努力することだ」
 「また君のために・・・いや違うか」
 成歩堂は天井を見つめて、静かに言葉を継いだ。
 「みんなのためだね。みぬきや、オドロキ君や、他のたくさんの人・・・そして君だ。ああ、もう遊んで逃げ回るわけにはいかないんだな」
 「・・・あれは遊んでたのか」
 御剣の言葉に、成歩堂は少し目を丸くした。すると、そのまま人差し指を立て、ひとこと呟くように告げた。
 「ないしょ」





end


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