01
The beautiful one is from the beautiful one to the appearance that the beautiful one goes to ruin.
Auguste Rodin
場所:ロシア料理店―彼の仕事先
時刻:開店前
地下への階段は狭かった。
おまけに暗くて、急な階段の足下がはっきりとしないせいで何度か足をとられそうになった。かろうじてわかる建物の古さのために、この暗さは何かの演出効果なのか、それとも整備が悪いせいで電球を切れたままにしているのか、どうにも判然としない。結局確かなのは自分が一歩ごとに下へ降りているのだということだけだった。
足はさっきから重たく、歩を進めるのを嫌がっていた。動悸もいくらか早くなっている気がする。黙ってこわばった手を壁に押しつけて、階段のなかほどで立ち止まった。
そのままこれから会う相手のことを考えたが、ずっとそれを考えないようにしてここまで歩いてきた反動で、すぐに頭痛がした。でもせめて、最初にかける声ぐらいは用意しておこうとむずがる頭にむち打った。
―なんでこんなところに。
いや、と頭を降る。話を聞きに来たのだ、今日は。喧嘩を売りに来たのではない。もっとなにか、彼の気分をほぐせるような言葉はないだろうか。
しばらく、階段に立ち止まった姿勢のままで考えていたが、その無数の神経系の働きは徒労に終わっただけだった。
成歩堂がバッジを奪われた、というニュースが届いたのは、私が外国にいたことを加味すればすぐだった。もちろん連絡をとろうとしたが、彼はなかなか捕まらなかった。どうしてもこちらへ帰ってくるわけにはいかず、結局私がやっと彼の事務所を訪ねられたのは、その話を聞いてちょうど三ヶ月後だった。事務所をはじめ、彼を知る人物や関係者に聞けるだのことを尋ねて回ったが、そのうちの誰も彼の消息について話したりはしなかった。私の質問の答えを知っている人間はごくわずかだったが、そのわずかな人間は彼が落ち着くまで待ってくれと答えた。おかげでなんとか彼の現在の住所が判明したのは、この国を離れる前日だった。
それから一年。その間にもいくつか他のことがわかったが、時間に忙殺されこの日まで一度も帰ってくることができなかった。この階段を下る日を、何度も夢に見た。
そこまで思い出してようやく、自分が、今考えるべきことではなく過去を反芻する事に頭を使っているということに気がついた。
ふうと大きく息をついて、また足を持ち上げた。
たしか階段を降りた場所のドアの中、そこが成歩堂の居場所だと聞いた。暗闇の中足もとを探りながら一歩踏み出す。
すると、足が何か固いものにぶつかった。なんだろうと顔を上げると頭上に明かりがともった。まぶしくて一瞬顔を背けたが、そこに何かあったような気がして、また見上げた。
あたりはすっかり明るくなって、様子は一変していた。自分の今居る階段の壁紙がすり切れているのまでよく見える。そのおかげでようやく今自分がぶつかったのが脚立の足だったことがわかった。
そして、脚立の上には誰かが居た。私はその顔を見て全身がひきつった。
成歩堂だった。
見覚えのないパーカーを着た彼は、脚立の上で電球を口にくわえたままソケットのスイッチをつかんだ姿勢で固まり、こちらを穴の空くほど眺めていた。
お互いあんまり驚きすぎてしばらく身動きがとれなかったが、それでも成歩堂は脚立を降りてきた。
何を言われるかと顔を下げたが、向こうは躊躇なくこちらに近づき、さっきのボール電球を弄びながら声をかけてきた。
「久しぶり」
私は耳を疑った。なんなんだそれは。
「ああ、連絡できなくてごめん。ちょっと忙しくしてたしさ。ムスメのことも考えて、しばらく誰にも仕事とか言わないでおこうと思って」
でも、よく見つけたねえ。と、いう言葉を聞きながら、私は折り畳まれていく脚立を眺めていた。
「何をやってるんだ」
「なにって・・・電球とりかえてたんだけど。見てわからないかな」
ほこりをかぶった電球に鈍く光が反射した。
「ちがう。・・・仕事だ」
「ああ」彼は重そうに脚立を持ち上げた。
「ここのピアニスト・・・と、まあここまで来たんだから知ってるか。ポーカーの相手、とか」
私は最後のセリフを聞き逃さなかった。
「とか、なんだ?」
にらみつけて相手が逃げられないようにする。しかし成歩堂の顔には臆するような気配はなく、こちらをまじまじと眺めていた。
「すごいな。そこまで知ってるの?」
私は彼のどこか脳天気な対応に嫌気がさしてきた。彼のセリフだけ聞いてたら、一月ぶりに友人同士がたまたま道ばたで会って、近況を交えて世間話をしているような具合だ。しかし現実の私の目的は「上乗」で片付けられる内容ではなかった。
「その話をしに来たんだ」
本当は一年ぶりの再会で他にも話したいことはあった。しかし、これはそれらに輪をかけて急を要する話だった。
「長くなる?」
当然だ。
すると彼は少し歩いて、立ち止まった。その前には古びた頑丈そうなドアがそびえていた。
「じゃあまあ、中でしない」
彼はノブを回した。
06
相手:成歩堂みぬき
場所:コーヒーショップ
時刻:午後三時
晴れだった。昨日は結局あのあと雨が降ったが、今日は打って変わってしみるような青空だった。
ビルの窓に映った太陽を手で避けながら、自動ドアをくぐりぬけて中へ踏み出した。
店内の大きな窓からは、やはり日差しがさんさんと降り注いでいた。そして、目的の人物はその窓の前の席に陣取っていたので、一瞬その光の中へ消えてしまった。
「待たせただろうか」
「そんな。この伝票を払ってくれたら文句なんかないです」
しっかりしている、と私が笑うと、みぬきは「パパの娘ですから」と返した。
今日はステージがないと言うので会ってもらっているのだが、なぜか彼女は衣装のままだった。そしてやはり飲み物はコーヒーフロートで、私の目線に気づくと「昼間ならいいですよね、ちょっとくらい」と言って微笑んだ。
昼間の光の中で見る彼女は、もう過酷な運命を背負った少女ではなく、天真爛漫なマジシャンの卵だった。その微笑みも、誰の心を切なくさせることもなく人に笑顔を振りまくためのものだった。きっとスポットライトの偽の昼の中でもこうして笑顔を人に分け与えているのだろう。
私は向かいの席に座って、微笑んだままポケットから手帳を取り出した。裏面に書かれた文字を彼女に向けて、さっそく切り出した。
「君が書いたんだろう」
「わかっちゃいましたか」
少し照れくさそうに笑う顔は、イタズラが見つかってしまった子犬のようだった。
「あのマジックのとき、自分で書いていたんだ」
「そうです。タネはナイショ、ですけど」
背伸びしたようなそのセリフに、私は構わないと答えた。
「よかったら聞かせてもらえるだろうか。これにはどういう意味があるのだろう」
すると彼女は舌を出して少し困ったような顔をした。
「わからなかったからやったんです」帽子をずらして続けた。
「その”ruin”っていうのが、とても美しいもののことを言うんだと思っていたんです。それが美しいものより美しいって、エライ人が言ったんですよね」
「そのようだな」
「その話をしようと思ったんです。あのとき。だから手帳にメッセージを書いたらいい、なんてことを思いついたんです」彼女は、だってマジシャンですからね、と胸を張った。
「私に?」
「はい」しかしすぐに頬を赤らめた。
「でも、聞いてみたら思っていた意味と違って驚いたんです。それでその話はしないでおいたんです。そしたら、ちょっと悩ませちゃったんですね」
ごめんなさい、と言う声はか細かった。
「謝ることはない」
悪いのは英単語を知らなかった成歩堂だろう。
「あの、ボルシチの絵も綺麗な絵なんです。だからよけい勘違いしちゃったんですね」でも、と彼女は続けた。「美しいものより美しいのは、美しいものが廃墟になってしまうことなんですか?」
「訳すときは、”荒廃”という言葉を使うようだ」
そこで私もコーヒーに口を付けた。「荒廃したものは美しい・・・というわけだな」しかし私にはその言葉はリアリティのない浮ついた言葉に聞こえた。もう一度コーヒーをあおる。もうじきカップの底が顔を出す。そうしている間も、みぬきの静かな目はずっと私を見ていた。
「パパに地下のお仕事をやめさせるっていうのは、諦めたんですか?」
不意をつかれて、カップを取り落としそうになった。
「どこでそれを・・・」
「ウエイトレスさんたちの噂ですよ」
一瞬、父親の”仕事”について全て知っているのかと聞きそうになったが、ポーカーのことだとしても話が通じることに気づいて口を閉じた。
「成歩堂は・・・やめる気がないようだ」
「才能があるんですよ。パパも」
そう言ってから彼女は私の目を見つめた。
「でも、あんまりまっとうなお仕事だと思われないってこともわかってます」
私も、静かにその瞳を見返した。
「そうですね、きっとこういうのを”荒廃”と言うんでしょうね」
荒廃、というのがキーワードだということに私はすぐに気がついた。
「と、いうことはパパは美しいってことになりますね。・・・みぬきは、パパは美しいと思うんです。弁護士だった頃から、凄くかっこよかったと思います。でも、今はあのころより”美しい”と思うんです。弁護士だった頃よりも、きっと、ずっと。つまり”美しいものより美しいのは、美しいものが荒廃した姿である”ってことです。だから、いいじゃないですか」
「何がだろう」
「パパがへたくそなピアノを弾いていても、地下でカードを切っていても。美しいならそれで、いいじゃないですか」
「・・・だから、やめる必要はない、と?」
正直なところ、ここまできても”荒廃したものが美しい”という言葉が理解できなかった。私はどうしても、あの法廷に立つ彼が忘れられなかった。
「廃墟はぼろぼろで危ないですけど、それを綺麗だと思う人にはそれを修復しようなんて気は起きないでしょうね、きっと」
「君は本当に美しいと思うか?荒廃してしまったものが」相手は子どもだ、と一瞬思ったが、彼女が相手ではそんな手加減は無意味だった。
「美しさっていうのは、生きていく上で本当に必要なものではないです。それでも、もしそれがあったら引きつけられずにはいられない、そういうものだと思います」
「引きつけてくるものが美しいものだと?」
「そうです。御剣さんは引きつけられると思いませんか?今のあのパパに、昔よりもずっと強く」
静かに脳裏に無数の思い出が横切った。
彼に会うために費やした日々のことが、彼がバッジを奪われたと聞いたときの衝撃が、彼の”仕事”について包み隠さず知った時の驚愕が、あふれ出んばかりに頭に満ちた。
あの、地下の階段を下りながら足を引きずり、それでも下りずにはいられなかったことも、この時ばかりは例外ではなかった。
─そうか。
「美しいというのは、そういうことか」
彼女がうなずくと、大きすぎる帽子のせいで顔が一瞬見えなくなった。
「そうです。美しいものが荒廃してしまったとき、ひとはどうしても引きつけられてしまうんです。だから、いいんです。美しいだけではおなかは膨れませんが、でも、こうして会いに来てくれる人がいます。だから」
「美しければいい、か」
はい、とみぬきが返事をした。
そこでようやく静かな空気が下りてきて、相手の言葉をかみしめる時間が与えられた。
テーブルのはしに置いた自分の手をじっと見る。
それがいくら美しいからといって、彼の”仕事”を肯定するようなことは決してできない。当たり前だ。
それでも、彼自身の職業意識が、ウェイトレスから聞いた存在理由が、そして、目の前で彼を美しいという少女が、彼の”仕事”に彼と再会した時と全く違う意味を与えていた。私は、誰にも聞こえないように小さな小さなため息をついた。
しばらく、差し込む日差しの中でふたりしてまどろんでいた。背中に感じる熱が暖かさから熱さに変わる頃、ようやくみぬきが口を開いた。
「あ、溶けちゃいました。アイス」
悲しそうな声でつぶやく彼女を見ながら、私は日差しに心まで満たされていくような気分になっていた。
「今度、君のステージが見てみたいものだ」
「いつでも歓迎してます」
くせなのか、そこで帽子のつばを軽く持ち上げて見せた。
「そうだ、パパのお客さんにもなってあげてください、今度」
今度こそ、彼女の言っているのがピアノのことなのか、ポーカーや売春のことなのかわからなかった。
なるべく動揺していないように聞こえように、じっと間を空けてから口を開く。
「それは勘弁だな」
私がそう言ったあとのみぬきの笑顔は、まるで花が咲いたようだった。
end
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