うつくしいひと



01

The beautiful one is from the beautiful one to the appearance that  the beautiful one goes to ruin.

Auguste Rodin





場所:ロシア料理店―彼の仕事先
時刻:開店前

 地下への階段は狭かった。
 おまけに暗くて、急な階段の足下がはっきりとしないせいで何度か足をとられそうになった。かろうじてわかる建物の古さのために、この暗さは何かの演出効果なのか、それとも整備が悪いせいで電球を切れたままにしているのか、どうにも判然としない。結局確かなのは自分が一歩ごとに下へ降りているのだということだけだった。
 足はさっきから重たく、歩を進めるのを嫌がっていた。動悸もいくらか早くなっている気がする。黙ってこわばった手を壁に押しつけて、階段のなかほどで立ち止まった。
 そのままこれから会う相手のことを考えたが、ずっとそれを考えないようにしてここまで歩いてきた反動で、すぐに頭痛がした。でもせめて、最初にかける声ぐらいは用意しておこうとむずがる頭にむち打った。
 ―なんでこんなところに。
 いや、と頭を降る。話を聞きに来たのだ、今日は。喧嘩を売りに来たのではない。もっとなにか、彼の気分をほぐせるような言葉はないだろうか。
 しばらく、階段に立ち止まった姿勢のままで考えていたが、その無数の神経系の働きは徒労に終わっただけだった。
 成歩堂がバッジを奪われた、というニュースが届いたのは、私が外国にいたことを加味すればすぐだった。もちろん連絡をとろうとしたが、彼はなかなか捕まらなかった。どうしてもこちらへ帰ってくるわけにはいかず、結局私がやっと彼の事務所を訪ねられたのは、その話を聞いてちょうど三ヶ月後だった。事務所をはじめ、彼を知る人物や関係者に聞けるだのことを尋ねて回ったが、そのうちの誰も彼の消息について話したりはしなかった。私の質問の答えを知っている人間はごくわずかだったが、そのわずかな人間は彼が落ち着くまで待ってくれと答えた。おかげでなんとか彼の現在の住所が判明したのは、この国を離れる前日だった。
 それから一年。その間にもいくつか他のことがわかったが、時間に忙殺されこの日まで一度も帰ってくることができなかった。この階段を下る日を、何度も夢に見た。
 そこまで思い出してようやく、自分が、今考えるべきことではなく過去を反芻する事に頭を使っているということに気がついた。
 ふうと大きく息をついて、また足を持ち上げた。
 たしか階段を降りた場所のドアの中、そこが成歩堂の居場所だと聞いた。暗闇の中足もとを探りながら一歩踏み出す。
 すると、足が何か固いものにぶつかった。なんだろうと顔を上げると頭上に明かりがともった。まぶしくて一瞬顔を背けたが、そこに何かあったような気がして、また見上げた。
 あたりはすっかり明るくなって、様子は一変していた。自分の今居る階段の壁紙がすり切れているのまでよく見える。そのおかげでようやく今自分がぶつかったのが脚立の足だったことがわかった。
 そして、脚立の上には誰かが居た。私はその顔を見て全身がひきつった。
 成歩堂だった。
 見覚えのないパーカーを着た彼は、脚立の上で電球を口にくわえたままソケットのスイッチをつかんだ姿勢で固まり、こちらを穴の空くほど眺めていた。
 お互いあんまり驚きすぎてしばらく身動きがとれなかったが、それでも成歩堂は脚立を降りてきた。
 何を言われるかと顔を下げたが、向こうは躊躇なくこちらに近づき、さっきのボール電球を弄びながら声をかけてきた。
 「久しぶり」
 私は耳を疑った。なんなんだそれは。
 「ああ、連絡できなくてごめん。ちょっと忙しくしてたしさ。ムスメのことも考えて、しばらく誰にも仕事とか言わないでおこうと思って」
 でも、よく見つけたねえ。と、いう言葉を聞きながら、私は折り畳まれていく脚立を眺めていた。
 「何をやってるんだ」
 「なにって・・・電球とりかえてたんだけど。見てわからないかな」
 ほこりをかぶった電球に鈍く光が反射した。
 「ちがう。・・・仕事だ」
 「ああ」彼は重そうに脚立を持ち上げた。
 「ここのピアニスト・・・と、まあここまで来たんだから知ってるか。ポーカーの相手、とか」
 私は最後のセリフを聞き逃さなかった。
 「とか、なんだ?」
 にらみつけて相手が逃げられないようにする。しかし成歩堂の顔には臆するような気配はなく、こちらをまじまじと眺めていた。
 「すごいな。そこまで知ってるの?」
 私は彼のどこか脳天気な対応に嫌気がさしてきた。彼のセリフだけ聞いてたら、一月ぶりに友人同士がたまたま道ばたで会って、近況を交えて世間話をしているような具合だ。しかし現実の私の目的は「上乗」で片付けられる内容ではなかった。
 「その話をしに来たんだ」
 本当は一年ぶりの再会で他にも話したいことはあった。しかし、これはそれらに輪をかけて急を要する話だった。
 「長くなる?」
 当然だ。
 すると彼は少し歩いて、立ち止まった。その前には古びた頑丈そうなドアがそびえていた。
 「じゃあまあ、中でしない」
 彼はノブを回した。
 



02

相手:成歩堂龍一
場所:”ナラズモの間”

 部屋は薄暗くて殺風景な眺めだった。それはつまり、おおむね私の想像通りだということだ。
 そんななかで成歩堂は、この部屋の主人といった面もちだった。まるで、この部屋の全てが彼のためにしつらえてあるような調和があった。そしてまた、彼自身がこの部屋のためにここにいるようにも見えた。堂々とこちらを見据える彼に対して、何かないかと思いポケットから手帳を取り出して両手で強く握った。
 「さて」
 それでも、話しかけてくる成歩堂の態度は先ほどと変わる様子はなかった。どうぞと先をうながされる。
 「君がさっき言ったように」私は、途中で彼が私を止めてはくれないだろうかと思った。全て自分の口から出すのはひどく億劫だった。「私はずいぶん君について調べている」
 「そんなことしないで会いに来たらよかったのに」その言葉にはとがめるような響きはなく、私は少なからず落胆した。
 「こちらに帰って来れなかったのだ」
 「相変わらず、忙しいんだ」
 気のない様子で相づちを打つ成歩堂を見た。
 「君も・・・忙しいそうじゃないか。ピアノの仕事に、この店のポーカープレイヤー。そして」
 そんなつもりはなかったのだが言葉が詰まった。しかし成歩堂はまるで気にした様子はなく、こちらを見たまま「どうぞ」とつぶやいた。それで私は言わねばならなくなった。「売春」
 それでも彼はまだ私の目を見てそらさない。
 「うん」
 それだけだった。
 しばらく場に沈黙が降りたが、彼の目は一つの言葉を浮かべていた。”それがどうした?”
 「何か言うことはないのか?」
 私は成歩堂への怒りを押さえつけながら声を絞り出した。怒りの理由は色々あったが、今は特に彼が止めてくれなかったことに怒っていたのかもしれない。しかし、彼はだるそうな顔をして言い返してきた。
 「あのさ、それが何か悪いことなわけ」
 その瞬間、私は思わず身を乗り出しテーブルを力いっぱい叩いた。その古さと相まって重厚な音がした。
 「自分がなにをしているのかわかって言っているのか!?」そのまま息を出し切ったところで成歩堂は答えた。茶化すようではなく、あくまでも真面目な声で。
 「性的サービス業」
 息を吸いこむタイミングでかけられた衝撃的なセリフに、思いの外ダメージを受けた。
 「そんな、・・・そんな仕事しかないのか、君は?よりにもよって・・・売春だぞ。最低だ」
 私は言えるだけのことを全て吐き出した。すると、初めて成歩堂がはっきりとしたリアクションを返してきた。立ち上がったのだ。
 「最低?」
 声は冷ややかだった。
 「あのね、君にはひょっとしてわからないのかもしれないけど、ぼくはこの仕事でムスメと自分を養ってるんだよ。たしかに自分で働いて、報酬をもらってる。それが、そんな非難をされなくちゃいけないことなのか?」
 私は呆気にとられて聞いていた。なんにしても、こんな対応は予想していなかった。
 「お前だって、検事なんてロクでもない仕事だって言われたらいい気はしないだろ。ぼくだって同じだよ。仕事っていうのは自分のアイディンティティの一部なんだ。それをなに、最低?」
 口を挟まさずまくし立てる成歩堂を前に、私は必死に頭を動かした。
 「だが、売春防止法というものがある。・・・・・・犯罪だ」
 言ってはみたが、これには致命的な穴がある。
 「引っかけようと思ったって、無駄だよ」
 彼は笑った。
 「そもそも売春をすること自体は法に触れない。刑事罰にあたるのは売春の斡旋や娼館なんかだ。なにより・・・・・・売春防止法で取り締まられるのは女性の売春だけだ。男がやるのは”売春”にあたらない」
 殆ど予想した通りの反論が帰ってきた。思わず唇を噛んだが、一方で彼が昔の面影をのぞかせたような気になってほっとした部分もどこかにあった。
 とは言えここで退くわけには行かない。
 「性倫理というものはないのか?君には」
 すると彼はいよいよ眼を細めて睨んできた。
 「ぼくはね、客にはコンドームをつけさせるし、定期的にエイズ検査に行ってるし、性感染症なんて一個もない。客に迷惑かけるようなことはしてない」
 「そういう問題ではない・・・!」
 「あのね、こういうサービスを求める人間は確かに居るんだよ。必ず。何しろ売春婦は最も古い職業のひとつなんだから。でもね、それを求める人間は穏やかに過ごして、提供する人間がバッシングを受けるってのは、おかしくない?求める人間をどう許容していくか考えられていないのに、提供する側の人間にモラルだけ押しつけるようなマネをする気?君は」
 どんどん論旨が積み重なっていき、ついていくのが精一杯だ。
 「そんなことは・・・」
 「言ってるんだよ。誰かがやらなくちゃいけない仕事をやっている人間に、その仕事は卑しいからやめろって言ってるんだぞ、君は」
 「なんで」彼が息を継ぐ間に滑り込む。「なんで・・・はじめたんだ?」
 「さてね」
 素っ気ない。「もう覚えてない。でももうこれはぼくの仕事で人生なんだ。君にとやかく言われたくない」
 それで彼は言いたいことを言い切ってしまったらしく、何か文句があるかという顔をした。
 しかたなく、私は最後の切り札を切らざるを得なかった。
 「君には・・・ムスメがいるだろう」
 少し、彼の眉が動いた気がした。
 「そんな状態で彼女を育てられるのか?」
 「モラルのない人間に子どもが育てられるのかっていうこと?テキトーなこと言ってくれるね」
 「そうじゃない」必死で言葉をつなげる。「そんな不安定な仕事状況と夜型の生活で、まだ十やそこらの子どもをまともに育てられるのか?いったい誰が彼女の面倒を見るんだ」
 しかしその言葉も彼にダメージは与えず、揺らぎない笑顔だけを引き出した。
 「心配ないね」
  



03

相手:成歩堂みぬき
場所:コーヒーショップ
時刻:同日深夜


 仕事先のバーの裏口から彼女が出てくるのを待っていた。もう夜半をとうに過ぎ、遠くで犬の鳴く声がした。
 彼女―つまり成歩堂みぬきは、ステージ衣装とおぼしきマント姿だった。
 こんな遅い時刻に幼い少女に声をかけて悲鳴でもあげられたらことだと思ったが、彼女は私の話を聞いて、はいわかりましたと言ってついてきた。彼女に声をかけた私としてはありがたい対応だったが、こんな無防備ではどう考えても危ない。成歩堂はきちんと危険管理をさせているのだろうか。
 たまたま目に付いた深夜営業のチェーン営業のコーヒーショップに入ると、彼女はコーヒーフロートを注文して、太っちゃいますね、と微笑んだ。
 私はその微笑みを見て胸が痛んだ。こんな、まだほんの子どもだというのに、父親は殺人容疑をかけられたまま失踪、次の保護者は縁もゆかりもない成歩堂である。その上今では彼女自身が働いて生計を支えている。波乱の人生という点ではもう立派な経歴を持っている。
 「パパのお友達、なんですよね」
 彼女の声が私の思考を止めた。年の割に流暢な敬語が、彼女と同い年の別の少女を思い起こさせて少し私の気分がほぐれた。
 「ああ、よく一緒に仕事をした・・・」
 何かを思い出しそうだったので私はそこで言葉を切った。それにしても、自分と同い年の友人がパパと呼ばれているのは少し照れくさいような気分だった。
 「その・・・成歩堂は元気にしているか?」
 パパと呼ぶのは、やはり無理だった。
 「そうですね、顔を合わせたときは、まあ元気そうです」
 「・・・顔を合わせたとき?」
 「はあ」彼女はスプーンでアイスクリームをすくって言った。「ときどき帰ってこなくなるので」
 私は愕然とした。「まともに育てる」どころではない。
 「成歩堂は・・・家に帰らないのか?」
 「いいえ、たいてい昼は家にいます。ただときどき、ふらぁっといなくなって、帰って来なくなっちゃう時があります」彼女の顔に浮かんだのは、ただアイスクリームのおいしさだけだった。
 「なにをしているんだ?そんな・・・ムスメをおいて」
 「さあ。なにをしているんでしょう」
 ・・・さっきまでの驚きは全て成歩堂に向けられていたが、今度はこの目の前の少女ののんきぶりがどうにも不思議だった。
 「ひょっとして、・・・彼を父親だと思っていないのか?」
 彼女の無関心な態度はそうとしか思えなかった。しかし、彼女はそれを聞くと驚いて目を丸くした。
 「そんな!パパはみぬきのパパですよ。大事な家族です」
 「そんな、君をおいて雲隠れするような男でもか?」
 すると彼女は眼をぱちぱちとしばたかせた。
 「だって、パパは帰ってきますから」
 そのセリフが胸を貫くようだった。彼女はそれだけ成歩堂を信頼しているのだ。
 「だが・・・。彼は君を働かせている。君はまだ十歳だ。普通、父親はそんなことをさせない」
 すると彼女は真剣そうな眼差しでこちらを見た。
 「そうですか?」まるで射すくめらるようで、私は目をそらした。
 「それは・・・そうだろう」
 「でも、この世にどれだけ働かないですんでいる子どもがいるんです?みぬきぐらいのとしの子が、みぬきよりずっと長い時間働いているなんてことが、特殊だと思いますか?」
 私は二の句が継げなかった。
 「みぬきはちゃんと学校で勉強してますし、パパだって働いています。それでもみぬきが働くのは、自分の才能のためです。それが変なことだとは、思いません。そしてそれが生活も潤してくれる。それだけのことじゃないですか」
 思わず舌を巻いた。弁が立つのは父親譲りなのだろうか。そしてどうやらふたりとも、自分のおかれたいるのが別段特殊なケースだとは微塵も考えていない。あるいは相手にそう思わせまいとする意気があった。
 じつのところ、私はいざとなったら彼女に成歩堂の”仕事”について聞く覚悟までしていた。十歳の少女に話すことでないのは重々承知だが、彼女がそれに嫌悪を覚えればひょっとして彼に”仕事”をやめさせられるかもしれないと言う算段があった。
 しかし、今になってそれはひどく恐ろしいことに思えた。もし、もしだ。彼女に全て話して、その答えが「はい、知ってます」というものだったら、どうしたらいい?私には成歩堂のムスメである彼女に、「それは異常なことだ」と吹きこめる自信はなかった。
 見ると彼女は今までの熱演はどこ吹く風、とグラスをかき回していた。グラスの中のマーブル模様はだんだんただの茶色に変わっていった。
 私は、なんとかこの奇妙な会話から逃れられないかと糸口を探した。
 「仕事は・・・楽しいか?」
 彼女は、答えるかわりににっこり微笑んだ。「見てみたいですか?」うなずくと、彼女は腰につけたポシェットを探りだした。
 「あれ・・・なんにもないなあ」そう言いながら中身をテーブルにどんどんのせていく。
 そんなこともあるか、とぼんやり眺めていると彼女のポシェットから私の手帳が出てきた。
 「・・・すごいな」
 えへへ、と笑い返してくる顔は幸せそうだった。
 「あれ?」
 というのは、手帳を私に返そうと差し出してきたみぬきのほうだった。
 「なんだろう、これ。ねえ、読めますか?」
 そう言って手帳の裏を見せてきた。そこには、何かクレヨンのようなものでアルファベットが書かれていた。
 「ruin・・・?」
 「どういう意味なんですか?」
 なぜこんなところにそんな単語が書いてあるのか全く意味不明だったが、とりあえず答えることにした。
 「廃墟、だな」
 「へえ」
 彼女は裏表紙の表面を撫でながら言った。「廃墟って意味なんだ」



04

相手:ウエイトレス
場所:ロシア料理店―彼女の仕事先


 「はあ、お友達、ですか」
 彼女は呆気にとられた顔で私の頭からつま先まで眺め回した。どうやら成歩堂のような仕事をしている人間に私のような固そうな友人がいるようには見えなかったらしい。視線には色々な表情がこもっていたが、彼女は口に出したりはしなかった。
 目の前の女性は、この店のウエイトレスだ。後ろ暗い彼のことを聞き出すのには骨が折れたが、いくつか彼やその仕事についての話をするとようやくその口を開いた。ありがたいことに彼女はここに働きに来て長いようだった。
 「変な人ですよね」
 「変、とは」
 「いろいろありますけど。ポーカーで負けないこととか。ときどき勝負に娘さんを連れてきたりとか」
 最後は初耳だった。やはりみぬきに彼の”仕事”について聞かなくて正解だったのかもしれない。
 「ここにはいつから?」
 「そうですね、もう一年は居るんじゃないですか。もっとかなあ。14・・・5ヶ月・・・?そんなところだと思いますよ」
 もしそれが本当なら例の事件の直後だ。
 「どうしてここに?誰かの紹介なのだろうか」
 「よく知りません」
 憶測やうわさ話をまことしやかに語られるよりはありがたかったが、にべもない口調からはなにも聞き出せない。しかたなく、私は話を本題に切り替えることにした。
 「成歩堂は・・・いつから”客”をとっているんだ?」
 「ああ」
 彼女もやはり、やっと本題に入ったのかという顔をした。
 「まあうちも怪しい店ですから。いろんなことに使ってたみたいですよ、あの部屋。昔も、そういうことに使ってたこともあるんじゃないですか」
 「誰かが客を斡旋したのか」
 「かもしれませんね。でも、最初の頃ははっきりしなかったんですよ。いつの間にか何人かのスタッフが知っていたんですけど。今も知らない人、いますし」
 やはりウエイトレスから聞けるのはこんなところなのかも知れない、と落ち込んだ。そうして私が黙っていると、彼女はひとりごとのようにつぶやいた。
 「あのひと、どうしてモテるんでしょうね」
 「・・・なに?」私は顔を上げた。
 「だって普通、30近い男で受け身なんて客はつきませんよ。”売れ筋”はやっぱり可愛い男の子でしょう」
そういうものなのだろうか。
 「でもみんな、彼がいいんですって。確かに元弁護士で無敗のポーカープレイヤーなんて興味をそそられるかもしれませんけど、でも普通、それだけじゃ寝ないですよね」
 寝る、という言葉はやはり耳に突き刺さった。しかし、彼女が今話している内容は私が今日までに手にした資料のどこにも見られなかったことだ。私は慎重に耳を傾けた。
 「変な人ですよ」
 いつの間にか最初に戻っていた。
 「そう、その変な人っていうのが魅力なのかもしれませんね。よくわかんないじゃないですか、あの人」
 「魅力・・・」
 「なんにせよ、他の人にはものを持っているんでしょうね。私にはわかりませんけど。・・・女だから」
 彼女はそう言って言葉を切った。
 しかし私はどこか興奮を抑えられないままだった。彼にそんなものがあるなんて今まで考えもしなかった。彼が言う”アイディンティティ”とはこのことなのかもしれない。
 「それで、こんなこと聞いてどうするんです?」
 その口調では、彼女はもう話すことはないようだった。
 「彼を・・・やめさせたい」
 なにを思ったか彼女は含みを持たせた笑顔を浮かべた。どうやらなにか誤解されたようだ。
 その視線を振り切ろうと部屋のすみに目をやった。
 すると、そこには一枚の絵がかかっていた。薄暗い絵で、まだ完全には明かりをつけていない店内ではどんな絵だかわからなかった。しかし、下に小さな札が張ってあった。どうやらタイトルや制作者について書いてあるようだ。
 そこには、アルファベットで、”ruin”とあった。



05

相手:成歩堂龍一
場所:公園


 空は今にも泣き出しそうな具合だった。それでもあの地下で話すよりはましに思えて、成歩堂を無理矢理地上に引きずり出した。彼もしきりに空を気にしていた。
 「洗濯物、干したまんまなんだよ。今日はみぬきも遅いし」
 早く終わらせろという意味なのかといぶかったが、まあしょうがないか、と自己完結した様を見ると特に意味はないようだった。
 「座ろうか」と言うので、すぐそばのベンチのことかと思ったが、彼はずかずかと公園の奥に向かって歩き出した。ようやく立ち止まったのは小道の脇のベンチで、多いとも少ないとも言えない半端な人通りの場所だった。
 成歩堂はベンチの隣の席を叩きながら座った。続くように座った私に彼は声をかけた。「で?今日はなに」
 私も単刀直入に切り出した。「これだ」
 私が彼に見せたのは例の私の手帳だった。裏のラクガキはまだほとんど消えずに残っている。成歩堂は、その手帳の裏を見て顔をしかめた。
 「下手だね」
 「別に、字が下手かどうかなんてことを聞きに来たわけではない」
 私は、前に成歩堂と会ったときのことを思い出した。みぬきに会うよりも前に人前で手帳を取り出したのは彼の前ぐらいだ。そしてポケットから取り出したときは確かになにもついていなかった。
 「君が書いたんだろう」
 そう言って彼の顔を見ると、しかめた顔のまま身動きをしなかった。
 「・・・なんで?」
 ようやく返ってきた言葉はそれだけだった。しらばっくれる気なのだろうか。
 「君の仕事先のレストラン、あそこにこれと同じタイトルの絵があった。・・・何か、意味があるんだろう」
 「ちょ、ちょっと待って」
 慌てて手で制す姿は少し懐かしかった。
 「もういちど見せて、それ。・・・なに、これ。どういう意味なんだ?」
 「廃墟、・・・などの意味がある」
 今度は腕を組んで眉間にしわを寄せた。
 「何でぼくがお前の手帳に”廃墟”ってクレヨンで書かなくちゃいけないんだよ」
 「それは私が知りたい」
 「それに、そんな絵あったっけ。覚えてないな」
 残念ながらどんな絵だったかよく見れなかった。そう言うと成歩堂は、なら自分も覚えているわけがないとへそを曲げた。
 この段になってようやく、本当に彼が書いていないのだということがわかった。しかし、なら誰がこんなことを書くのか。
 「廃墟・・・ねえ」
 関心がないのかと思ったら、彼はこのことについて考えているようだった。
 「たしかにボルハチって廃墟みたいにボロいけどさ」
 「ボルハチのことだと思うか」
 「わかりませんって」
 そう言ってから彼は口元に手を当てた。それを見ていると、まるで法廷の喧噪が蘇ってくるようだった。
 「だいたい、なんでぼくが書いたと思ったの」
 まさかこう振られてくるとは思わず、少しうろたえた。
 「き、君に会ったあとに見つけたからだ」
 「なんて意味だと思ったの、そのとき」
 いつの間にか問いつめられる形になって逃げられなかった。成歩堂の目はまっすぐこちらを見て、固く閉じた私の口を開かせた。
 「君が・・・自分のことを廃墟だと思っているのでは」
 「なんだそれ。どういう意味?」
 顔も声も、拍子抜けしたような調子を帯びていた。
 「例えばこう・・・自分の人生を終わりだと感じていたり、しているのではないかと」
 語尾が消え入るのと同時に、目の前を子どもたちの集団が通り過ぎた。成歩堂はそれを目で追っていた。そしてそれが見えなくなると、また私に視線を戻した。
 「なんだ、そんな風に思ってたのか」
 今度は、彼がなにを考えて喋っているのかわからなかった。顔を上げて表情を見る勇気がなかったのだ。
 「たしかに、ぼくは弁護士を天職だと思ってた。でももう、終わってしまったことなんだ。しかたないんだよ」
 確かに現実を受け入れたその声は、私が言ったような葛藤をすでに飛び越えていたことが伺えた。むしろ、そうやって彼を案ずる私を慰めるような声だった。
 「終わってしまったけれど、みぬきもいるし、こうやって友達が会いに来てくれる。廃墟はこんなに賑やかじゃないよ」
 そこでようやく、私は彼と目を合わせることが出来た。その瞳は、確かに心から笑っていた。
 「それに、ほら。仕事も忙しいし」
 そのひとことだけは、余計だと思った。つまりあの日地下で私に話したのは自己の正当化などではなく彼の職業意識そのものだったのだと気づいて、めまいがした。彼を廃墟にせずにおいたのは、娘と彼の仕事だったのだ。
 私はまた目を落として、もう一度あの文字を見た。最初もどこか不気味な意味を持って見えたが、誰がなんのために書いたかわからないとなると、それはますます奇妙なオーパーツとして目に映った。しかし、それを見ていた成歩堂の目が何かを見つけたような動きを示した。
 「待て・・・これ、どこかで・・・・・・」
 その目はどこか遠くを見ていたが、確かに記憶をたどっているようだった。
 「意味を聞かれたんだ」ぽつぽつとこぼれ出すような声だった。「この文章はどういう意味かって聞かれて、がんばって訳してみたんだ。”The beautiful one is from the beautiful one to the appearance that the beautiful one goes to ruin. ”、”美しいものより美しいものは、美しいものがruinになること”って。でもそのとき”ruin”がどういう意味かわからなかったんだ。だから一階にあがったとき、あの絵を見て言ったんだ。”これがruinだよ”って。そしたら、”こうなることが美しくなること?”って聞かれたんだ」
 「誰にだ?」
 「それは―」



06

相手:成歩堂みぬき
場所:コーヒーショップ
時刻:午後三時


 晴れだった。昨日は結局あのあと雨が降ったが、今日は打って変わってしみるような青空だった。
 ビルの窓に映った太陽を手で避けながら、自動ドアをくぐりぬけて中へ踏み出した。
 店内の大きな窓からは、やはり日差しがさんさんと降り注いでいた。そして、目的の人物はその窓の前の席に陣取っていたので、一瞬その光の中へ消えてしまった。
 「待たせただろうか」
 「そんな。この伝票を払ってくれたら文句なんかないです」
 しっかりしている、と私が笑うと、みぬきは「パパの娘ですから」と返した。
 今日はステージがないと言うので会ってもらっているのだが、なぜか彼女は衣装のままだった。そしてやはり飲み物はコーヒーフロートで、私の目線に気づくと「昼間ならいいですよね、ちょっとくらい」と言って微笑んだ。
 昼間の光の中で見る彼女は、もう過酷な運命を背負った少女ではなく、天真爛漫なマジシャンの卵だった。その微笑みも、誰の心を切なくさせることもなく人に笑顔を振りまくためのものだった。きっとスポットライトの偽の昼の中でもこうして笑顔を人に分け与えているのだろう。
 私は向かいの席に座って、微笑んだままポケットから手帳を取り出した。裏面に書かれた文字を彼女に向けて、さっそく切り出した。
 「君が書いたんだろう」
 「わかっちゃいましたか」
 少し照れくさそうに笑う顔は、イタズラが見つかってしまった子犬のようだった。
 「あのマジックのとき、自分で書いていたんだ」
 「そうです。タネはナイショ、ですけど」
 背伸びしたようなそのセリフに、私は構わないと答えた。
 「よかったら聞かせてもらえるだろうか。これにはどういう意味があるのだろう」
 すると彼女は舌を出して少し困ったような顔をした。
 「わからなかったからやったんです」帽子をずらして続けた。
 「その”ruin”っていうのが、とても美しいもののことを言うんだと思っていたんです。それが美しいものより美しいって、エライ人が言ったんですよね」
 「そのようだな」
 「その話をしようと思ったんです。あのとき。だから手帳にメッセージを書いたらいい、なんてことを思いついたんです」彼女は、だってマジシャンですからね、と胸を張った。
 「私に?」
 「はい」しかしすぐに頬を赤らめた。
 「でも、聞いてみたら思っていた意味と違って驚いたんです。それでその話はしないでおいたんです。そしたら、ちょっと悩ませちゃったんですね」
 ごめんなさい、と言う声はか細かった。
 「謝ることはない」
 悪いのは英単語を知らなかった成歩堂だろう。
 「あの、ボルシチの絵も綺麗な絵なんです。だからよけい勘違いしちゃったんですね」でも、と彼女は続けた。「美しいものより美しいのは、美しいものが廃墟になってしまうことなんですか?」
 「訳すときは、”荒廃”という言葉を使うようだ」
 そこで私もコーヒーに口を付けた。「荒廃したものは美しい・・・というわけだな」しかし私にはその言葉はリアリティのない浮ついた言葉に聞こえた。もう一度コーヒーをあおる。もうじきカップの底が顔を出す。そうしている間も、みぬきの静かな目はずっと私を見ていた。
 「パパに地下のお仕事をやめさせるっていうのは、諦めたんですか?」
 不意をつかれて、カップを取り落としそうになった。
 「どこでそれを・・・」
 「ウエイトレスさんたちの噂ですよ」
 一瞬、父親の”仕事”について全て知っているのかと聞きそうになったが、ポーカーのことだとしても話が通じることに気づいて口を閉じた。
 「成歩堂は・・・やめる気がないようだ」
 「才能があるんですよ。パパも」
 そう言ってから彼女は私の目を見つめた。
 「でも、あんまりまっとうなお仕事だと思われないってこともわかってます」
 私も、静かにその瞳を見返した。
 「そうですね、きっとこういうのを”荒廃”と言うんでしょうね」
 荒廃、というのがキーワードだということに私はすぐに気がついた。
 「と、いうことはパパは美しいってことになりますね。・・・みぬきは、パパは美しいと思うんです。弁護士だった頃から、凄くかっこよかったと思います。でも、今はあのころより”美しい”と思うんです。弁護士だった頃よりも、きっと、ずっと。つまり”美しいものより美しいのは、美しいものが荒廃した姿である”ってことです。だから、いいじゃないですか」
 「何がだろう」
 「パパがへたくそなピアノを弾いていても、地下でカードを切っていても。美しいならそれで、いいじゃないですか」
 「・・・だから、やめる必要はない、と?」
 正直なところ、ここまできても”荒廃したものが美しい”という言葉が理解できなかった。私はどうしても、あの法廷に立つ彼が忘れられなかった。
 「廃墟はぼろぼろで危ないですけど、それを綺麗だと思う人にはそれを修復しようなんて気は起きないでしょうね、きっと」
 「君は本当に美しいと思うか?荒廃してしまったものが」相手は子どもだ、と一瞬思ったが、彼女が相手ではそんな手加減は無意味だった。
 「美しさっていうのは、生きていく上で本当に必要なものではないです。それでも、もしそれがあったら引きつけられずにはいられない、そういうものだと思います」
 「引きつけてくるものが美しいものだと?」
 「そうです。御剣さんは引きつけられると思いませんか?今のあのパパに、昔よりもずっと強く」
 静かに脳裏に無数の思い出が横切った。
 彼に会うために費やした日々のことが、彼がバッジを奪われたと聞いたときの衝撃が、彼の”仕事”について包み隠さず知った時の驚愕が、あふれ出んばかりに頭に満ちた。
 あの、地下の階段を下りながら足を引きずり、それでも下りずにはいられなかったことも、この時ばかりは例外ではなかった。
 ─そうか。
 「美しいというのは、そういうことか」
 彼女がうなずくと、大きすぎる帽子のせいで顔が一瞬見えなくなった。
 「そうです。美しいものが荒廃してしまったとき、ひとはどうしても引きつけられてしまうんです。だから、いいんです。美しいだけではおなかは膨れませんが、でも、こうして会いに来てくれる人がいます。だから」
 「美しければいい、か」
 はい、とみぬきが返事をした。
 そこでようやく静かな空気が下りてきて、相手の言葉をかみしめる時間が与えられた。
 テーブルのはしに置いた自分の手をじっと見る。
 それがいくら美しいからといって、彼の”仕事”を肯定するようなことは決してできない。当たり前だ。
 それでも、彼自身の職業意識が、ウェイトレスから聞いた存在理由が、そして、目の前で彼を美しいという少女が、彼の”仕事”に彼と再会した時と全く違う意味を与えていた。私は、誰にも聞こえないように小さな小さなため息をついた。
 しばらく、差し込む日差しの中でふたりしてまどろんでいた。背中に感じる熱が暖かさから熱さに変わる頃、ようやくみぬきが口を開いた。
 「あ、溶けちゃいました。アイス」
 悲しそうな声でつぶやく彼女を見ながら、私は日差しに心まで満たされていくような気分になっていた。
 「今度、君のステージが見てみたいものだ」
 「いつでも歓迎してます」
 くせなのか、そこで帽子のつばを軽く持ち上げて見せた。
 「そうだ、パパのお客さんにもなってあげてください、今度」
 今度こそ、彼女の言っているのがピアノのことなのか、ポーカーや売春のことなのかわからなかった。
 なるべく動揺していないように聞こえように、じっと間を空けてから口を開く。
 「それは勘弁だな」
 私がそう言ったあとのみぬきの笑顔は、まるで花が咲いたようだった。






end


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