ガツン、と大きな音がした。
それは慌てた私が、引き戸を手前に引っ張った音だった。
それから一瞬だけ考えて、これは横に引くのだと気付いてようやく私は中に入ることが出来た。
「大丈夫っ」
思わず声が出ていた。それをとがめるように父が人差し指を唇に当てたとき、私は不覚にも涙がこぼれそうになった。
「よかったぁ・・・」
鼻声になりながらも笑ってみせると、父も元気そうに笑い返した。
明かりはベッドの脇に置かれた卓上灯のオレンジの光だけで、部屋の隅には闇が残っていた。
深夜とはいえ、独特の静けさに身を包んだこの場所は病院の一室だった。
そして、目の前でいつもと変わらないひょうひょうとした顔でベッドに寝ている父こそが、すでに処置を終えたこの部屋の患者だった。
私は父に近寄って、布団の上に握りしめたままだった携帯電話を置いた。それから腫れ物を触るように腕を撫でながらその顔を覗き込んだ。
「骨は・・・?」
父はまるでケガひとつないような顔で笑っているが、さっきの電話の話では交通事故にあったばかりなのだ。まだ医者に面会をしていない私には父のケガの度合いはまるで想像もつかなかった。
いずれにせよ、わざわざ入院ということになっているのだ。そう軽くはあるまい。
しかし父は少しはにかんで答えた。
「どこも折れてない」
そう聞いて私は少し息が抜けた。
「そう。じゃ・・・ち、血は出た?」
父はふるふると頭をふった。
「別に。輸血もないし」
「え・・・?」
その言葉に、私は眉をひそめた。今度は逆に最悪の想像が浮かんできたのだ。
私はケガや病気に詳しいわけではないが、こういう場合骨折や出血のない患者がわざわざ個室に泊まらされるだろうか。
私は悪いほう悪いほうへと行きたがる思考を何とか振り切って、最後の質問をした。
「あたま・・・打ったって・・・」
私はそれだけ言ってすぐにうつむいた。父の顔を見るのが怖かった。
もし・・・父が、父が死んでしまうようなことがあったら・・・私はどうしたらいいのだろう。
「なんともないって」
突然父の言葉に思考が途切れ、私は反射的に顔を上げた。
「は?」
「どこも大したケガなんかしてないよ。心配させちゃったかな」
「し、したよ」
そう言って安堵を覚えながらも、私はどこか引っかかりを感じた。
「え・・・待って。そ、その、十メートル飛ばされたんでしょう?」
「うん、だいたい」
「で、電柱であたま打ったんでしょう・・・!?」
「らしいね。そこらへんまでいくとよく覚えてないんだけど」
私はしばらく開いた口が塞がらなかったが、無理矢理声を絞り出した。
「無傷!?」
「いや・・・」
父は少し唇をとがらせて不満げな顔をした。
「足を捻挫したよ。まったくひどい話だよね」
「は・・・」
私は息をのんで体を硬直させていたが、今度は部屋を見回した。
「足の捻挫で・・・個室って・・・」
「ああ」
父は思いだしたように手を打った。
「ほら、どう考えてもこれは向こうの過失だろ」
「だ、だから?」
「て、ことはさ、治療費諸々もみーんな向こう持ちってことだよ」
「うーん・・・、そうかな」
私にはまだ話が見えなかった。すると父はまた朗らかに笑いかけてきた。
「高い方が、特だろ」
その言葉に、今度は一気に息が抜けて私はそばにあった丸椅子にへたりこんだ。
「明日は、相部屋に移れって言われたんだけどね」
「へえ・・・なんで」
「捻挫だけだけど個室で入院してたいって言ったら、お医者さんが”ふざけるな”って」
「それは・・・みぬきがお医者さんでも言うかな、パパみたいな患者が来たら」
しばらく私は無言で椅子に腰掛けていた。さっきまでの興奮状態を無理矢理醒まされたような気分だった。
しばらくしてようやく落ち着くと、私は背筋を伸ばして座り直した。
「パパは・・・人を心配させるのがトクイだよね」
すねた声で話しかけると、父は今度は声を立てて笑った。
「みぬき以外に、誰がパパの心配をしてくれるっていうのさ」
父はそれでこの話題を終わらせようとしたが、私はそうはさせまいと言葉を紡いだ。
「パパ、みぬきは知ってるの」
父はきょとんとした顔をした。そこで私はすっと息を吸い込んだ。
「あ・の・事・件」
わざわざ区切って発音すると、父は露骨に嫌そうな顔をした。もちろん彼には心当たりがあるのだ。
私は心中でほくそ笑んだ。今晩さんざん振り回されたお返しだ。
「なにが?」
と言う父の声まで、今にも逃げ出さんばかりのひねくれた響きが潜んでいた。
私は十分な溜をとって口を開いた。
「ふ、ふ、ふ、ジェット機チャーターして帰ってきた人が居るって、みぬきは知ってるの」
父は一瞬心臓を鷲掴みにされたような顔をしたが、ゆっくりと表情を不機嫌ぐらいの程度に戻していった。
「誰に聞いたの」
「パパにちょっと、ね」
父は案の定恨みがましい目で「あいつか」とだけ呟いた。
「ほらもう、パパはいっつもまわりに心配ばっかりかけるんだから。ちょっとは自分を大事にしてね」
「・・・うるさいな」
子どもがすねるような声で父は私に背を向けた。私はそれが面白くて仕方なく、しばらく一人でにやにや笑いを止められずにいた。
「あ、そうだ。パパに連絡しようかな、”パパが大変!”って」
父は何も言わずに布団を頭までかぶった。
すると布団の上に置いてあった私の携帯電話が滑り落ちて、
ガツン、と大きな音がした。
end
初出(ブログ掲載)
07/07/18