雷鳴と薔薇



01

 「やっぱりヘン、かなあ」
 遠くでカキンと音がした。河川敷で野球をやっているせいだ。
 真宵は隣に座った成歩堂の顔を眺めた。口がぽかんと開いたままで、目もどこを見ているやらわからない体たらくだった。が、おおむね自分も同じ顔をしているであろうことがわかっている真宵は、何も言わずに正面に向き直った。
 「そりゃあー・・・」
 真宵の口調ははっきりしなかった。何とも答えにくい質問だった上に、ふたりそろって満足に頭が働いていないのだ。
 「・・・ヘンっていう言葉の意味にもよるんじゃない・・・?」
 また気持ちよい音が響いて歓声が上がった。どうやらヒットが出たらしい。
 ふたりが腰掛け時間をつぶしているのは緩やかな土手のてっぺんで、日当たりがよく殆ど無風に近かった。そんな心地よい日和のおかげで、まわりには散歩をする人やふたりのように腰を下ろして談笑している人々も居る。のどかな午後そのものだ。
 が、そののどかな世界の中でこのふたりは完全に浮き上がっていた。その証拠に、このあたりを通る人々は慎重にふたりから目線をそらしていた。
 今日はれっきとした平日で、時刻はまだ昼をすぎたばかりだ。そんななかでアホ面下げて草の上に座り込んだ弁護士と怪しげな装束の少女を見て思いつくセリフは、「可哀想に・・・」くらいなものだ。
 しかしその可哀想なふたりにも内心言い分があった。
 いくらこのふたりの取り合わせが奇妙でも、理由もなく土手で放心するようなことはない。それでどういうわけでこんなことになっているかというと、実のところこのふたりは非常に困難な問題に直面しており、まともに考えていたらとても耐えられないという非常に現実的な理由からだった。
 その結果、ふたりは思考を停止させて惚けた頭で意味もなく河原で時間をつぶしていた。たいていこういった対処をして解決することは何一つないということには、鈍った頭では気づけなかったのがたった一つ残念なことだった。
 遠くでツバメの子が鳴いた。
 「気休めはいいんだよ」
 成歩堂の気の抜けた言葉は、いかにも頭を動かしていない人間のそれだった。
 「いや、そういう意味じゃないんだけど」
 そして、真宵の言葉も雲に包まれたようにぼんやりとしていた。
 成歩堂は変わらない調子で続ける。「そういう意味じゃない。じゃあどういう意味?」
 真宵はちょっと唇をとがらせて反抗の意を示した。
 「ええ・・・だからさあ、この話のどこの部分かって問題だよ。ヘンなのは」
 それを聞いて、成歩堂は真宵の方に首を傾けた。ギシリ、と首のきしむ音がした。
 「聞きたい?」
 成歩堂の顔も見ずに、真宵はそっと目を閉じた。
 「ううん、いい」
 ちょうどそのとき、なぜかグラウンドからは野次が飛んだ。
 すでにこの話題については問題が出尽くし、なおかつそのどれも解決されてはいなかった。しかたなくまたしばらくふたりはぼんやりとしていたが、それにも飽きたのか真宵が口を開いた。
 真宵は、いかにも億劫そうな調子で言葉を紡いだ。なぜかといえば、この土手でおしゃべりを始めてからようやく出た現実的な意見だったからだ。
 「でもまあ・・・こんなところで話してても無意味なんじゃない?」
 ふたりの目の前では、タンポポの綿毛が宙を舞い風に乗った。散歩途中の犬が、白くなった花に飛びついたのだった。
 真宵は空を見つめたままぽつりと言った。
 「もう言っちゃったんだしさ」
 



02

 「もう、なんなのよっ」
 地方検察局十二階には雷鳴が轟いていた。
 特にその階に位置する一室で。
 「何で私が、あなたの落としたカップの後始末をしなきゃいけないのよっ!」
 その部屋のふたり分の人影は、今まさに床にはいつくばってこぼれ落ちた紅茶をふき取っているところだった。
 「・・・すまない」
 と言ったのはこの部屋の主である御剣怜侍で、
 「すまないで済んだら、私の被告人を無期懲役にしてやるっていう楽しみはどこへ行くって言うの!」
 と言ったのは狩魔冥だった。
 「い、今の発言は、その、問題だと思うが」
 「冗談よ」
 もちろんそのセリフを信じる人間は、この部屋のどこにもいなかったが。
 そしてその部屋は、机やソファにまで茶が飛び散りひどい有様だった。フローリングには色の濃い液体が広がり、その中にてんてんと白い磁器の破片が落ちている。カップと一緒に落ちたと見える何枚かの書類は、べったりと赤い色に染まってしまっていた。
 「ああ、まだ破片があるわ・・・。派手に割ったわね」
 「・・・・・・」
 御剣は顔を上げずに黙々と手を動かしていた。冥は不審に思ってその顔を覗き込んだが、相手は反応も見せない。
 「どうしちゃったっていうのよ、いったい」
 それでも御剣は、返事もせずに作業を続けていた。その一方で床は見る見るうちに元に戻っていく。集められた破片は、もうすでにカップ一つ分そろっているように見えた。
 そうしていつまでも反応がないのにしびれを切らした冥は、今度は目の前のその顔を強く睨み付けた。しかし御剣は目も合わせない。
 「ヘンよ」
 すると、その声に御剣が動きを止めた。
 御剣は冥を見て、ようやくその口を開いた。
 「ヘン、・・・だと?」
 冥は肩をいからせると、前のめりになって語気を強めた。
 「あなたね、朝から自分が何しているかわかっている?もうパソコンと、携帯と、書類を一束ぶちまけてるのよ」
 「それは・・・」
 御剣は明らかにうろたえた様子を見せた。しかし冥はそんなところで引き下がるつもりはまるでなかった。
 「それでわざわざ拾い集めたらその書類は間違いだらけだし、私がそう言っても上の空じゃあもう進むものも進まないわよっ」
 「ぐ・・・」
 確かな手応えに冥は気をよくして、この追求をさらに続けた。
 「今日までに出さなきゃならない仕事が、あとどれだけ残ってると思うの!?これじゃ仕事にならないのよ!」
 冥の顔が眼前に迫り、御剣は思わず身を引いた。
 「ああ、言ってたら腹が立ってきたわ」
 反論を挟ませないその語調に、御剣は困った顔を浮かべて冥から目をそらした。
 「それは・・・なんとかする」
 「あのねえ、それはね、自分の紅茶の後始末で時間を無駄にしない人間の言うことなのよっ」
 御剣はあきらめて目を上げた。
 「・・・いやに辛辣だな、さっきから」
 「辛辣?」
 そう言うと、冥は腰に手を当て、すっくとその場に立ち上がった。その姿は、なぜだか少し閻魔大王に似ていた。
 「ふふん。もう言われたくなければね・・・」
 そのまま御剣をにらみつけた冥は、厳かに告げた。
 「言ってしまいなさい」
  



03

 「何で言っちゃったの?」
 相変わらずふたりは土手に座ったままだった。あのあとも多くの人が河原を通っていったが、その誰もが彼らからは目をそらして通り過ぎた。
 当然のようにふたりの前には例の問題が横たわっていたが、古代より続く「見なかったことにする」という秘技でこの危機を乗り越えていた。
 すでに日は若干傾き、野球の試合は佳境にさしかかっていた。ここからでは、どちらが勝っているやらまるでわからなかったが、興奮した応援の声はやむことがない。
 「何でっ・・・て?」
 成歩堂の声は眠そうな調子を帯びていた。
 「やあその・・・黙っててもよかったんじゃないの」
 真宵はぶちぶちと草を抜いた。その合間にちらっと成歩堂を見て、また目線を手元の草に戻した。
 「言わなくても、さ」
 それを聞いて成歩堂はガバッと後ろに倒れ込んだ。真宵もそれを目で追った。
 成歩堂は真上を見ていたので真宵もつられるように上を見たが、そこにはただ青い空が広がっているばかりだった。
 「わかんないよ」
 「あー」
 その声はとてもまともな人間の発する声には聞こえなかったが、ふたりともまともでないのはお互い百も承知だったのでだれも気にしなかった。
 「うーん、でもさあ、なにかあるんじゃないの?今まではずっと言わずにすんでたんだし」
 がりがりという音は、成歩堂が頭をかく音だった。
 「すんでたねえ」
 真宵は続けた。
 「あったんだよ。きっと。なにか」
 「ううん」
 まぶしいのか、今度は目を手で守った格好で成歩堂は答えた。
 「聞いても面白くないよ」
 「それはあたしが決めるの」
 真宵は、成歩堂の隣に手を突いてのしかかるようにして顔を覗き込んだ。
 「ほら、言う」
 「うー」
 成歩堂は眉間にしわを寄せて、とうとう観念したのか口を開いた。
 「言わなきゃ、こりゃあたまらないと思ったんだね」
 真宵はじっと成歩堂を見た。
 「どーいうこと?」
 その声に成歩堂はもう一度頭をかいた。
 「そりゃあ・・・苦しかったんだろうね。きっと」
 「・・・黙っているのが?」
 「苦しいことは続かなくなるもんさ」
 成歩堂はそう言って一度のびをした。真宵は身を起こしてもう一度さっきのように座り直した。
 「ふうん」
 ぼんやりした真宵の口調は相変わらずだった。
 「それじゃあ、しょうがないかあ」
 「うん」
 草が揺れた。葉のこすれ合う音が波のようにあたりに広がっていった。
 「しょうがないんだよ」



04

 しょうがなく、冥は頭を抱えた姿勢のまま声を出した。
 「もう一度聞いてもいいかしら」
 「あんまりよくないな」
 「言いなさいよ」
 御剣はそっとため息をついた。その顔は、もう二度とこんなセリフを口からは出すまいという決意が早々に破られたのを、誰より嘆いているのだと主張していた。
 「つまりだ・・・」
 その口調はまるで巨石でも背負ったように重たげだった。
 「成歩堂が、私に・・・その」
 「告白したって言うの?愛してるって!?」
 耳がキンと響いてしばらく聞こえなくなりつつも、御剣は心中で「もう一度言えといったのは誰だ」と愚痴った。
 それでも、前向きに対処すべく御剣は指を耳から離した。
 「・・・声が大きい」
 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
 言ってる場合なのだ、今は。と、いうか今使わなければいったいどこで使うというのだろうか。という一連の御剣の思考は、結局言葉になることはなかった。
 そうして御剣が黙り込んだせいで、残念ながら冥に話の主導権が行った。
 「その・・・、ええと」
 「なんだ」
 そう言う御剣の額にはすでにしわが寄っていた。しかし冥はそれを特に気にした様子もなく声を出した。
 「よかったじゃない」
 ガン、という音は御剣が思わず机の脚を蹴った音だった。
 「いっ、いいのか?」
 御剣が慌てて聞き返すと、冥は腕を組んだ。
 「いえ、違うわね・・・。今のはちょっと言ってみただけなんだけど」
 それから冥はげんなりとした顔の御剣を見返すと、ぽつりと聞いた。
 「それで、なんて答えたの?」
 あからさまにうろたえた御剣は、今度は足をしたたかにソファにぶつけて静かになった。
 「ひょっとして・・・何も言わなかったの?」
 御剣は少し逡巡していたが、それでも返事を返した。「そうだ」
 声はぶっきらぼうだったが、その顔は手で隠されて、どんな表情が浮かんでいるかは見てとれなかった。
 今度は冥が眉根を寄せて聞いた。
 「ひどいわね。まさかそれで逃げたの」
 「・・・・・・」
 沈黙は、時に何よりも正確な答えだ。冥は深くため息をついた。
 「あなたはどうしたいの?」
 「どう?どうとは?」
 「だから」
 少し咳払いをして背を伸ばすと、もったいぶって冥は続けた。
 「レイジは成歩堂龍一とどうなりたいのか、っていう話よ」
 御剣はまた黙った。今度は目が下を見ている。
 「あなたは彼とその・・・恋人になりたいと思っているの?それとも全くそうは思わないの?」
 「・・・考えたこともない」
 御剣の白い顔は青みを増していた。
 その顔を冥はちらりと見たが、話を切る様子は見せなかった。
 「・・・でもね、答えないでずるずる引きずってご覧なさい。今日だけでも甚大な業務の遅れが出ているのよ。この話が長引いたら、それこそ首の心配をしなくちゃならないわ」
 「・・・いや、待ってくれ」
 「待たないわ。どうなの。さっさと決めなさい!」
 「いや、だからこんな問題をそんな簡単にに決めるわけには・・・」
 「私には、あなたの恋人より仕事が大事なのよ!」
 バン、と机を叩く様は検事と言うより刑事だった。
 御剣はこの理不尽な状況にすでに耐えかねているようだったが、それでも何とか取り乱さずに彼女の話をじっと聞いていた。
 冥は静かに御剣を見据えて声を出した。
 「あなた、男性に欲情したことがある?」
 「み、身も蓋もないな」
 「あるの?ないの?」
 今度こそ御剣は口を固く結んで黙ったが、ついに観念したように答えを言った。
 「・・・ない」
 「じゃあ決まりね」
 即座にそう言うと、冥はぱたぱたと手を払う仕草をした。
 「断りましょう」



05

 「断られたら・・・どうする?」
 足もとの方では、もう下校時間なのか制服姿の女の子の一団が途切れずに続いていた。その少し先、川辺では小学生の男の子達が何か見つけたのか大声で喜んでいた。この風景に映りこんだ人々はものの十分も過ぎれば退場していくが、このふたりはもはや景色の一部となっていた。
 斜めいた日差しのおかげで、景色のコントラストが強調され見るものをもの悲しくさせていた。
 もちろん成歩堂も、それほど楽しくはなさそうな顔で応えた。
 「そこまで考えるの?」
 「他に考えることなんて、もうないよ」
 成歩堂は頷きかけたが、寸でのところで押しとどまった。
 「あるよ。こう・・・OKがでたらどうするかとかさ」
 「ええ、でもさあ」
 真宵は首を傾げた。
 「あたしは、期待してどん底に突き落とされたなるほどくんを見るのは、ちょっと可哀想だなあって思って言ってるんだよ。オヤゴコロだよ」
 余計なお世話だ、と成歩堂はひとりごちたが、言い返す言葉が見つからなかった。
 「ねえねえ、どうしようか」
 「・・・どうもこうもないよ。それまでだろ」
 「お、いさぎいいね」
 「他にどうしようもないだろ」
 「まあね」
 口調は軽かったが、そのままふたりの間に沈黙が下りた。言葉を濁しても、それは今じゅうぶん恐れるに足ることだった。
 真宵はゆっくりと首を動かし、傍らでじっとしたまま動かない成歩堂を見て反射的に声を出した。
 「パフェ」
 何が起こったのかと成歩堂は真宵の方を向いたが、彼女が斜め50度上方を見つめたまま動かないのでまた正面に向き直った。
 しかし、そのあとも真宵が何か言う様子がないので、仕方なく成歩堂は聞き返した。
 「なに?」
 真宵はゆっくりと目線を正面に戻した。
 「パフェは失恋に効くそうだよ」
 成歩堂は胡散臭そうな顔で真宵を見た。
 「・・・なにで聞いたの?」
 すると真宵も成歩堂を見たが、問いに答える気はさらさら無いようだった。
 「ほら、よく金魚鉢のパフェなんかやってるじゃない。ああいうのがいいなあ」
 「・・・ちょっと待て、聞き流しそうになったけど、なんでそれ真宵ちゃんが食べることになってんの」
 「いやあ、あたしはおつきあいだよ。なるほどくんを慰めながら、一緒に食べるの」
 ふたりは同時にそのシーンを思い浮かべた。ふたりとも口にはしなかったが、その想像の中で真宵が食べているパフェは成歩堂の食べているものの三倍はあった。
 成歩堂は短くため息をついた。
 「いくらなんでも、そんな金魚鉢とかは食べれません」
 「あ、じゃあじゃあ、あたしがなるほどくんの残した分も、食べてあげるね」
 真宵は成歩堂の冷たい視線も意に介さず、にこにこと幸せそうに微笑んだ。
 「・・・どんだけ食うんだよ。ハラ壊すぞ。」
 「うーん、でも本望かな。パフェなら」
 ふう、と大きくため息をついた成歩堂は、もはや突っ込む気力も失せていた。
 「そんなに食べたいなら、真宵ちゃんがすれば?失恋」
 「考えてみるよ」
 それを聞いて成歩堂は肩をすくめると、また手で顔を覆った。もう日はだいぶ弱まっていた。
 しかし、それでも真宵は話したりないのか身をよじって成歩堂に話しかけてきた。
 「でもさ、風邪ひいたときの桃カンっておいしいよねー。失恋して食べるパフェも、きっと美味しいよ。しなよ、失恋」
 成歩堂は顔を手で隠したままで答えた。
 「考えておくよ」



06

 「考える必要はないわ。よこしなさい。携帯電話を」
 「いやだ」
 そう答えた御剣の手には、大事そうに携帯電話が握られていた。
 睨み合うふたりの距離感は、部屋の寸法や家具の位置関係を考えた上で絶妙なものがあった。どちらかがしびれを切らして出口なり相手に踏み出せば、そこで相手の勝利が確定する。まさに一触即発の張りつめた空気が流れていた。
 「代わりに断ってあげると言っているのよ。私が。成歩堂に」
 「なんでそこまでされなきゃならんのだ」
 御剣はうんざりした声を出したが、この手の状況で追われる方が不利なのはもはや言わずもがなである。
 対して冥の声には容赦がなかった。
 「あなたにまかせてたら、スペインで婚姻届けに判を押すまで断れなさそうだからよ!」
 御剣は一瞬体をひきつらせたが、それでも何とか声を絞り出した。
 「ば、馬鹿にするのも大概に・・・」
 「じゃあ」
 冥は一歩だけ前に進み出た。それに合わせて御剣も一歩下がる。
 「今すぐ断ればいいわ。レイジが、その電話で」
 御剣は、わずかだが体をこわばらせた。
 「・・・プライベートだ。キミがいる前でそんな内容は」「あのね」
 冥は相も変わらず高圧的な視線で御剣を見た。それはまさしく獲物を追うものの目だった。
 「そんなこと言ってるうちに、いつの間にかオランダで養子までもらって結婚してるかもしれないのよ!」
 「か、変わっているが。さっきと」
 「レイジ」
 諭すような声で続ける。
 「あなたねえ、これ以上仕事を遅らせないために、いまこうして断りの電話を入れようとしているのじゃない。つまりね、これは仕事なの。プライベートなんか、どこにもないの」
 御剣は開いた口が塞がらなくなったが、目の前の彼女の悠然とした微笑みは揺らぎもしなかった。
 「さ、かけなさい」
 御剣の目は、まっすぐ冥を睨んだ。ここまで追いつめられても、やはり御剣は彼女よりも年長だった。
 「そんな屁理屈に引っかかると思うか。あきらかにこれは私事だ」
 その毅然とした態度に、冥は肩をすくめた。
 「そう。ならいいわ」
 冥は拍子抜けするほどあっさりと引き下がると、窓の前を占領している巨大な机に腰掛けた。
 すると、ポケットを探って一枚の紙片を取り出した。
 そこから出てきた白いカードは、気の遠くなるほど見慣れた社会人の必需品だった。
 「名刺に番号を書いてもらってるから。自分でかけるわ」
 「ま・・・!」
 受話器に手をかけた冥を止めようと、御剣は手を伸ばして進み出た。
 するとすばやく手首を冥に掴まれバランスを崩す。そのまま手首をひねられて緩く体を拘束された。
 身動きのとれなくなった御剣の目の前には、ただうら若い姉弟子の笑顔だけがあった。
 「詰み、ね」
 そう言って冥は空いている方の手を開いた。
 そこにあったのは御剣の名刺だった。



07

 この川っぺりの道も、いつのまにか人通りが増えていた。おそらく家路を急ぐ人々だろう。
 真宵は隣に寝ころぶ成歩堂を見ていた。さっき会話を終えてから、一度も声をかけてこない男は、今も草の上でじっとしていた。それでもしばらくは眺めていたが、十分も経つとさすがにあほらしくなって視線を足下に落とした。
 と、その瞬間成歩堂がものすごい勢いで飛び起きた。
 「わあ」
 成歩堂はあちこちのポケットを叩くと、ようやく青い携帯電話を引っぱり出した。その鬼気迫る目つきに、真宵も思わずディスプレイをのぞき込んだ。
 「み・・・つるぎ検事」
 そこでようやく真宵に気付いたのか、成歩堂は真宵を途方に暮れた目で見た。
 「どうしよう・・・」
 「・・・出れば?」
 親のカタキを見るような目で画面を睨み付けた成歩堂は、息を吸い込んで通話ボタンを押した。
 「もしもし・・・」
 少し固くなった成歩堂の声の向こうから、微かに別の声がするのが真宵にも聞こえた。すると成歩堂は眉をひそめた。
 「どなたです?」
 ―どなたって、御剣検事ではないのか?
 真宵は、通話する成歩堂の頬に顔を寄せるようにして会話を聞いた。
 「狩魔・・・冥?」
 真宵は思わず成歩堂の顔を見たが、その顔には困惑しか見て取れなかった。
 「が、なんで御剣の携帯電話で・・・」
 聞こえる声は、確かに聞き覚えのある彼女のものだった。
 しかし冥は特殊な状況にあるらしく、電話口の彼女は走っていた。明らかに息が上がり、硬いヒールの音が響いている。
 「かけ直そうか」
 「結構よ」
 冥はその瞬間、はっと息を飲んだが、数秒経つとまた走り出した。
 「今じゃないと」
 今度は成歩堂が真宵を見たが、同じように真宵が自分の顔を伺っているのを見てため息をついた。
 いったいどういうわけだ。
 「なに?暴漢に襲われてでもいるわけ?」
 「そうとも言えるわね。でも通報することはないわ。相手は知ってる検事さんだから」
 今度はいきなり声が遠くなり、音は彼女の足音だけになった。しかしまたすぐ電話口に出た。
 「心配いらないわ」
 心配いらないと言われても、実際冥は電話の向こうでサスペンスドラマを繰り広げているようだし、彼女の言うのが本当なら、検事に追われるという非常識な目にあっているようだ。
 「なんでその状態でぼくに電話して来るんだ」
 「それがね。その、」
 また何か音がして会話が途切れたが、息も絶え絶えになりながら冥は続けた。
 「その検事さんが、あなたに言いたいことがあるっていうのよ」
 「え?なんだって」
 「あなたほら、―」
 その瞬間、わずかに後ろで「よこせ」という声がした。
 「もしもし?」
 成歩堂は声を張り上げたが、聞こえてきたのは「ツー」という電子音だけだった。
 「ど、どういうこと?」
 一部始終を隣で聞いていた真宵は目を白黒させていた。
 成歩堂はしばらく今の会話を反芻していたが、ようやく諦めて顔を上げた。
 「切れた」



08

 切れ者ばかりが集まるはずの地方検事局十二階は,阿鼻叫喚の相を呈していた。
 机の上のものは片っ端から床に散らばり、棚という棚に虫食いのような物が落ちたあとがあった。
 そこでは、ふたりの公務員が息を切らせていた。
 「・・・ひどいじゃない」
 「どっちがだ!」
 お互い肩で息をしていたが、御剣は握りしめた携帯電話を胸に押しつけて二度と相手にとられないようにと強く力を込めていた。それに対して冥は彼が一瞬でも隙を見せたら飛びかかろうと目を細めていた。
 「女を本気で追いかけるものじゃないわ・・・。しかも、こんな狭いところで」
 「他人の電話で勝手に男をふるな」
 「あら、断りたくないの?」
 御剣は黙って床を見た。冥はそれを見て口をとがらせた。
 たぶん、御剣ははっきり言うのが怖いのだ。
 「それより・・・。どうするんだ、この後始末。この端末なんか壊れているぞ」
 「あらあ。本当ね」
 他人事のように言う冥に、御剣は青筋を立てた。
 「今日中に片付けなければならない仕事があると言ったのはキミだろう」
 「全くだわ」
 ますますシワを深くする御剣に、冥はひょうひょうと言う。
 「これで、恋愛沙汰は仕事に支障を来すということが立証されたわけね」
 「・・・他に何か言うことはないのか?」
 「私だったら、同僚にばれるようなへまは踏まないわね」
 御剣は押し黙った。それを見て冥はほくそ笑み、部屋は静まり返った。
 プルルルルルルルルル
 「わっ」
 「あら・・・」
 甲高い電子音は、御剣の手の中から聞こえていた。
 「あなたの携帯電話よ」
 御剣は慌てて自分の手のひらの中をのぞき込んだ。しかしそのとたん、御剣は動きを止めた。
 「成歩堂龍一から・・・かしら?」
 その声に目を上げた御剣は、したり顔の冥を見て着信を切ってしまった。
 「もういいだろう。・・・仕事に戻ろう」
 「無視する気なの?」
 冥の目はまっすぐ御剣を見ていたが、相手は背を向けたままこちらを見はしなかった。
 「たぶん、返事を聞きたいとかそういう内容じゃないと思うけれど。さっきの電話が途中で切れたから、かけ直してきたのよ」
 「私にかかってきた電話をとろうがとるまいが私の勝手だ」
 それを聞いて、冥は露骨に顔をしかめた。
 「何言ってるのよ。友達でしょう、あなたの」
 そこでようやく御剣が振り向いて冥の顔を見返した。そこには御剣のよく見せる、あの自嘲気味の笑顔が張り付いていた。冥は何だか嫌な予感がした。
 「今は違う」
 とだけ言う御剣に、冥は堪忍袋の緒が切れた。
 「違わないわよ!」
 息を荒くして立ち上がった冥は、御剣につかみかからんばかりの勢いだった。
 「相手に返事もしないで、なに勝手なこと言ってるのよっ!」
 プルルルルルルルルル
 また電子音が鳴り響いた。恐らく誰も出ないのを不振がって成歩堂がまたかけてきたのだろう。
 冥は御剣の顔から目を離さなかった。
 「出なさいよ」
 冥の目に映った御剣の瞳は暗い色をたたえていた。
 「出て・・・なんて言ったらいいというんだ」
 「あなたの返事を、よ」
 すると御剣は顔を背けてしまった。
 「・・・馬鹿げている」
 苦しそうな声音で御剣が言うのを、冥は静かに聞いていた。
 「何が?」
 「電話でする話じゃない」
 突然そう言われて冥は呆気にとられたが、それでも理性を保ったまま話を続けた。
 「そんなことはないんじゃない」
 「成歩堂は」
 御剣は目をそらして部屋の壁を見た。
 「私に会って言ったんだ」
 それから御剣は黙り込んだが、それを聞いて冥はシラけた顔をしていた。
 「・・・そういうことは先に言いなさい」
 冥はイライラと足を動かしながら言った。
 「なら、方法は一つじゃない」



09

 一つしかないはずの太陽は、川面に映って二つになっている。
 西からは真っ赤な陽が照りつけていた。もうすっかり夕方だ。見渡す限り、どこもかしこもオレンジ色に染められて、一日の疲れをねぎらうようだった。
 快晴とは行かず空にいくつも長い雲がたなびいていたが、それも夕日を照り返して夕景色に色を添えていた。
 その景色のなか、土手の斜面の人気のないところで男がふたり、ずいぶん前から話し込んでいた。
 「なに話してるんでしょうね」
 と呟いたのは女の声だった。
 「長いわね」
 続く気だるそうな声も女だった。
 草の上に腰を下ろした冥と真宵は、土手の高いところから互いの連れ同士のやりとりを眺めているのだった。
 ふたりが話し始めてもうだいぶ経っていた。それでも終わる気配がないので、女達は思いつく限りの不満を並べていた。
 「さっさとしてくれないと、残業中に日付が変わってしまうわ」
 それを聞くと、真宵は小さなため息をついた。
 「それは諦めた方がいいかもしれませんね」
 「あの男、まだ勤務中だっていうことを忘れてはいないでしょうね」
 そう呟いた冥に口をへの字に曲げた真宵が続く。
 「ほんの一言で片付けられないんでしょうか。それですむでしょ」
 そう言ってふたりが足下に目を移すと、当の男達はふたりして笑っていた。
 その仲むつまじい様を見ていると、彼らの間に横たわる確執なぞ忘れてしまいそうになってしまう。
 「本当に・・・なに話してるんでしょうね」
 真宵は苦々しげに言葉を吐いた。
 「ひとの気も知らないで、あとで見てなさい」
 「さっきまでここで悶々としていたのは、あれはいったいなんだったんでしょう」
 「蜃気楼じゃない」
 そう言うと冥はふたりの男に向かって石を投げたが、残念ながら届く前に地面に落ちた。
 もういいかげんどれだけ待ったのか、ふたりはげんなりとした顔を浮かべていた。
 たしかにカタをつけろと送り出したはずだが、先ほどから談笑する様はどう考えてもただの世間話を繰り返している。
 「狩魔検事は、どうなると思います」
 「あら、賭ける?」
 いいですけど、と言って真宵は財布を探った。
 「35円でよかったら」
 「やめておきましょうか」
 冥は、再び足もとの男達を眺めた。
 「それに・・・賭にならないんじゃないの」
 「あたしも、そんな気はしてました」
 「あああ、また仕事が遅れる」
 「うちなんか、もう一日無駄にしてます」
 大きくのびをした冥が腕を下ろすと、その傍らでカサリと音がした。
 「? なんです?」
 「ああ」
 冥は脇に置いてあった包みをとりあげると、中を開いて真宵に見せた。
 「お祝いよ」
 真宵は中をのぞき込み、また顔を上げて冥を見た。
 「・・・わかってたんですか?こうなるって?」
 「別にそうじゃないわ。誰かさんが失恋したときはお見舞いにしようと思ってたの」
 真宵はまた包みを覗き込むと、中の物に優しくふれた。
 「キレイですね」
 そうね、と言う冥の手に握られていたのは一輪のバラだった。ピンク色の花弁が夕日を照らし返した。
 おりしもふたりの男達は話をまとめたようだった。
 「さて」
 冥は立ちあがって服についたゴミを払った。
 「誰か来るまえにあのふたりをひきはがしましょうか」
 「ううう、嫌だなあ」
 そう言うと冥と真宵は坂の下へ駆けだした。






end


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