ミュージック



01

 さっきから何か音がしている。
 それは断続的に穏やかなリズムを繰り返す。
 何が音を立てているのかと思って部屋の間取りを思い浮かべたが、私にはそれがいつからしているのかもよく思い出せなくなっていた。間断なく響くその音は、普段は耳につかないが、ふと手を休めると気付くような小さなものだった。顔を上げて見まわせばその正体はすぐに知れてしまうだろうが、私はそのままディスプレイから目を離さず仕事を続けた。
 そうして仕事を続けながらも私はもう一度部屋の機械類や廊下の間取りを思い出したが、この検事局12階フロアにはこの音を出すようなものは何も見つからなかった。
 いったいこの音がし出したのはいつのことだろう。
 ひょっとして、今までは気付かなかっただけで、私がこの部屋を使いはじめた頃からしているのだろうか。私はそう思って記憶を探ったが、そのどこにもこんな不可解な音は残っていなかった。
 私はあきらめて心を仕事に戻し、面白くもない打ち込みを続けた。
 そうしてずいぶん経った頃、いつの間にだか私はその音に合わせてキーを打っていた。
 間延びして響く例の音に合いの手を出すように、カタカタとキーは硬い音を出した。その音の重なり合いは、時間を重ねるごとに少しずつ少しずつずれを修正していった。
 長いことそうしていた。
 今ではこの二つの音は何かの旋律に聞こえないこともない。何も知らない者がはたから見れば、きっと私が調子よくキーを打っている音にしか気付かないだろうが、すでに私と音はまるで呼吸を読み合うように作業を続けていた。
 たいていはこのような打ち込み作業は面倒なだけだが、音のせいで無心のままに終わりが近づいた。
いきなり、私はこの旋律が終わってしまうのが惜しくなった。私はそこで初めてこの音が、この無味乾燥な作業を一つの満ち足りた形に昇華していたのだと気付いたのだった。
 それでも手元の書類にもう書くべき事項は何もなかった。音はまだ続いていたが、私の手は止まった。
 そうして、部屋の中に響いているのはたった一つの単調なリズムだけになってしまった。
 それを聞いた私の中に喪失感が押し寄せ、先ほどまでの満月のような気分を流し去ってしまった。さっきまでは私もあの音の一部だったのに。
 私は、そっとため息をついて手元の書類をかき集め、机の隅に重ねて置いた。
 顔を上げるといつの間にか部屋の中には夕闇が押し迫り、コントラストの飛んだ薄黒い空間が広がっていた。
すると、暗闇の中で何かが一瞬動いた。
 思わず目を凝らすのと同時に、手はスイッチにのびた。すっと音もなく部屋に明かりがともる。
 私はソファの上を見て、ふっと息を吐いた。
 そこには成歩堂が寝ころんでいた。
 よどみなく胸が上下するのと、部屋に響く音のタイミングは同じだった。
 私はゆっくりと今日のことを思い返す。
 そうだ、成歩堂は昼頃ここを訪ねてきていたのだ。彼は裁判を終えてすぐならしく、ひどくつかれた顔をしながらも世間話をいくらかした。仕事の話は出なかった。
 私が作業している間一言も言わないので、てっきり帰ったものだと思っていた。しかし、彼は何を思ってかここでそのまま眠ってしまったらしい。音の正体は彼の寝息に過ぎなかった。
 なんだか失望して、泥のように眠りこける彼を起こそうと肩のあたりに手を伸ばした。
 「・・・何してるの?」
 その声に、私はすんでの所で手を止めた。
 声は女のもので、どうやら入り口に立っているようだった。
 「起こすんだ」
 私は声の方を見ずに言った。声の主ははメイだった。
 そして彼女のいる方から小さな衣擦れの音がした。身をよじるか、姿勢を変えるかしたのだろう。
 「やめたほうがいいんじゃない」
 するとメイはこちらに向かって歩いてきた。そこでようやく、私は彼女を視界に収めた。
 「もう夜だ」
 メイは成歩堂の傍らに立った。彼女の目は成歩堂の寝顔に向かっていた。
 「触ったらばれるわ」
 一瞬メイがなんと言ったのかわからなかった。落ち着いてもういちどその言葉を反芻させて、ようやく言葉はわかった。しかし依然その言葉が何を指しているのか、私にはまるでわからなかった。
 「何がだ?」
 メイは一拍おいて口を開いた。
 「あなたの気付いていないそのことよ」
 私はもう一度メイに問い返そうと思ったが、メイはさっと手を伸ばして成歩堂の肩を揺すって起こした。  





02

 「あら」
 顔を上げて声の方を見ると、入り口にメイが立っていた。
 「今日はいないのね」
 メイはそう言って部屋の中を見回しながら、足音を立ててデスクまで歩いてきた。
 はい、と手に持っていた封筒を私に渡してくるので、両手で受け取って中を確かめた。中には昨日頼んだ書類が何通か入っていた。
 ちら、と盗み見るように目線を上げると、メイは横を向いて本棚に並んだ背表紙を眺めていた。
 「何がいない?」
 私が言うと、メイはすっと体ごと動かして私を見た。くだらないことを聞く、というような顔をしていた。
 「成歩堂龍一よ」
 その答えを聞いて、私は自然と眉根に力が入った。
 「別におかしくはないだろう。アレには自分の事務所があるんだ」
 「・・・なに言ってるのよ」
 メイは少しだけ首を傾げて私の目を見た。
 「昨日も一昨日も、そこのソファで寝てたじゃない」
 「・・・ああ」
 そこでようやく、私はメイの言わんとするところがわかった。
 一昨日私が仕事をしている横で眠りこけて結局メイに起こされた成歩堂は、昨日もやはりやってきて私の横で眠っていた。
 来客がやってくるたびぎょっとした顔で帰って行くのでなんどもたたき起こそうかと考えた。だが成歩堂はひどく疲れた顔のまま、身動きもせずに眠り続けるのでなんだか柄にもなく可哀想になってしまって放っておいたのだった。
 結局、昨日も気がつけば私の終業時刻まで目を覚まさず、またメイに起こされて一人で帰っていった。
 「そうだ」
 「なに?」
 私はメイの方を向くと、一昨日から続く疑問を投げかけた。
 「なにがばれるんだ?私が・・・何か隠し事をしているとでも?」
 すると、メイは派手に肩を落として大仰に息をついた。
 「いるのよねえ、こういう人間って」
 しばらく私は黙っていたが、いくら待ってもメイが続きを言わないのであきらめて話を戻した。
 「成歩堂は―来ていない」
 メイは少しだけ顔をしかめた。
 「昨日はずっといたじゃない。ずっとよ、一日中」
 「私も、いったいいつ仕事をするのかと思った」
 メイは後ろに下がってソファに腰を下ろした。
 「なにも言ってなかったの」
 「そうだな。特には」
 するとまたメイは黙り込んだ。しばらく顎に手を当てて何か考えている風だったが、どうにも挙動がおかしい。この様子からすると、なにか私の知らないでいる情報をメイはつかんでいるようだった。
 「やけに気にするな。・・・成歩堂を」
 私から会話の橋を架けると、メイは顔を上げて何か言いたげな目で私を見、またそらしたりを繰り返した。何かを迷っているのだろう。いま私に出来るのは、ただ黙って待つことだった。
 ずいぶん経って、ようやくメイは私をじっと見てきた。
 「・・・何か変じゃない?」
 メイはそのまま私から視線をそらそうとせず、目を細めて睨んできた。
 何を怒っているのかと思ったが、その目を見続けて気がついた。メイの目にはむしろ、懇願するような色が浮かんでいた。
 そうだ、気付けと―気付いてくれと私に言っているのだ。何かは知らないが、それはとてもメイの口からは言えない事柄なのだ。
 私は必死に記憶をたどったが、どうやらメイの言いたがっていることを、私がまるで知らないのだということだけがわかっただけだった。
 「・・・どういうことだ」
 私がそれだけ言うと、メイは口を固く閉じ、鋭い目で床を見た。
 それからずいぶん待ったが、メイは重苦しく黙ったまま部屋を出ていった。  
 




03

 私は勢いよく扉を開け放った。
 成歩堂法律事務所の部屋の中に目的の相手はいなかったが、見知った人間がソファの上に座り込んでいるのをみつけた。
 私は息を整えながらソファに近づき、静かに声をかけた。
 「知ってたんだな」
 私がそう言うと、その人物はゆるゆると顔を上げて私をじっと見た。
 それはメイだった。
 「ええ」
 私は小さく舌打ちをした。メイにも聞こえていただろうと思うが、それは私に向けたものだった。
 「私の方が、ちょっと耳が早かったようね」
 「・・・そうだな」
 メイは手に持っていたカップをソーサーの上に置いて、ソファの背に深く身を預けた。
 「なぜ・・・黙ったままで」
 それを聞くと、冥は静かに息を吐いた。前髪で一瞬目が隠れたが、次の瞬間にはその目でまた私を見た。
 「成歩堂龍一が黙っているなら、なんで私があなたに言えるというの?」
 私はそれ以上メイの目を見てはいられなかった。床を見て目をつぶり、絞り出すように呟くことしかできなかった。
 「そうだな・・・。そうだ、当たり前だな」
 メイは黙ったままカップをとって口を付けると、カチャンと音をたててソーサーに置いた。その音に私は応接用のテーブルに目線を移したが、見れば向かいにも全く同じ一組のカップとソ−サーが置かれていた。
 まさか―。
 「いたのか・・・!?ここに」
 「ええ。さっきまで」
 私はさっとドアを見、またメイを見た。それから一目散にドアに駆けだすと、後ろからまたカップの音がした。
 外は暗くなり始め、往来を行き来する人々がぼんやりして見えた。
 駅へ向かう道は家路につく人々であふれ、誰も彼も同じように見える。その間を縫って走りながら成歩堂を探そうとするが、彼の行き先すら知らないままではただ放浪しているのと変わりなかった。
 日はゆっくりとだが確実に沈んでいき、私のあてのない捜索は遅々として進まなかった。駅や駅の周辺の小道までくまなく入り込んで探すが、私は見つかる期待も持てず、かといってやめることもできずにいたずらに時間を消費し続けた。
 行き交う人々の波がすっかりなりを潜めた頃、私の脚はずいぶん疲れを溜めていた。どうしても見つけなければならないものがかすりもしないときの、あの独特のむなしさを感じながら私はようやく帰る気になった。
 一度荷物を取りに帰ろうと、検事局に向かって歩き出す。重たくなった脚を引きずりながら、私は人気の絶えた細い路地に潜り込んだ。
 だらだらと長い道がまっすぐ続くのを、白い街灯が点々と照らし出している。進むごとに一個づつ街灯は背後へ消え、道の終わりが見えるようになった。
 まだあれだけあるのかとそちらを見ると、いつのまにか街灯三つ分ほど前のところを男が一人歩いていた。
 男の足取りはずいぶんゆっくりとしていて、そうこうするうちに私の横に並びそうな程の距離にいた。
 私はそっと立ち止まって男の背を見つめた。
 「・・・おい」
 声をかけると男も立ち止まり、音もなく頭をかく仕草をした。しばらく男は振り向く気配を見せなかったが、私はなにも言わずに待っていた。
 それは長かったような気もするが、私にはすでに時間の感覚は消え去っていた。男はやっと腕を下ろすと重たげな動作で振り向いた。
 「・・・や」
 成歩堂の顔は一昨日見た時よりも疲れて見えた。それでも表情はいつもと変わらない、少し不機嫌そうなしたたかな顔をしていた。
 「ちょうど会いにいこうと思ってたんだけど。どうしたの」
 声の調子もいつもと違っては聞こえなかったが、私は黙って成歩堂の腕をとった。
 「もう聞いた」
 そう言うと、成歩堂は少し表情を緩めた。
 「そうか」
 緩んだ顔は、いつの間にか穏やかな笑顔にまでなっていた。私はそれを見て思わずどうにも切ないような、たまらない気持ちになった。成歩堂が笑っていられる状況ではないということを、私はようやく聞いたばかりだった。
 それでも微笑んだままの成歩堂に、何か言うべきだと言葉を探したが、結局喉を通りはしなかった。
代わりに、つかんだ腕に力を込めると、痛いよと言ってまた成歩堂は笑った。それを聞いても私は手を離せなかった。
 「・・・どうしたんだよ」
 成歩堂は私の肩を叩いた。その声は今まで彼から聞いたことがないほど静かで慈しみに満ちていた。その声を聞くのはたまらなく嫌だったが、成歩堂は私の顔を見てまた口を開いた。
 「泣くことないだろ」
 成歩堂は、握ったままの私の腕をさすった。私はそれを見てようやく、メイの言っていたことの意味が分かった。
 私は彼を愛しているのだ。  
 




04

 どうぞ、とカップを狩魔冥の前に置くと、彼女はぼくの顔をじっと見て目元をこする仕草をした。
 「赤くなってるわ」
 慌てて目元に手をやったが、そこはもう乾いていた。
 狩魔冥はカップの中身を一口すすると息をついた。
 「忙しそうね」
 「まあね」
 ぼくも自分用に出したカップを手でもてあそんだ。
 「でももう・・・これが終わったら暇になるだろうから・・・」
 狩魔冥はなにも言わなかった。
 ぼくもなにも言わず、しばらく窓の外を見ていた。
 それがずいぶん続いたあと、ぼくは声を出した。
 「誰に・・・聞いたの?」
 「耳がいいのよ」
 彼女はそう言うと、静かに顔をぼくに向けた。
 「結局バッジは・・・駄目なのね」
 狩魔冥の言葉はどうにも耳に痛かった。まだあのとき居合わせていなかった人間には誰にも報せていない。それが、向こうから言われた方が辛いのだとぼくは初めて知った。
 「そう思うよ、多分」
 ぼくがそう頷くと、彼女は苦しそうな顔をした。
 「言わなかったのね。レイジに」
 「・・・うん」
 「私、言ったのかと思ってたわ。だからレイジがなにも知らないから驚いて」
 「言おうとは思ったんだ。でもさ・・・」
 狩魔冥は、またカップを手に取った。
 「言えないんだよ」
 言えずに、ぼくは静かに眠り続けていたのだ。つまりは、御剣がことの次第を知らないということだけがぼくを安心させてくれていたのだ。
 「でも、言わないわけにもいかない・・・」
 狩魔冥の声は語尾を曖昧にしたまま消えた。ぼくはぎゅっと自分の腕をつかんで目をそらした。
 「三年だ」
 「な・・・にが?」
 狩魔冥は身を乗り出して尋ねた。ぼくは目をそらしたままだった。
 「千尋さんが生きてるとき、三年したらまともに使えるって言ってたんだそうだ。それから・・・今年で三年目だ」
 「・・・・・・」
 「ぼくは何のために弁護士になったんだ?・・・助けのない人々を救うためだろ?それが・・・使いものになる前にこれだ。・・・馬鹿みたいじゃないか・・・」
 声が震えているのが自分でもわかった。
 「自分自身も救えないで・・・誰に言えるんだ?こんなこと」
 じっと睨み続けていた部屋の隅には埃がたまっていた。そんなものすら自分の情けなさを責めているようで苦しくなった。
 苦しい―。
 ―すると、カツカツと乾いた音がした。
 思わず目を移すとそれは狩魔冥が靴を鳴らした音だった。彼女は無言で目元をこすって見せた。慌てて袖口でふき取ると、今度はそこはしっかり濡れていた。
 「気にすることはないわ」
 狩魔冥は穏やかな口調で言った。
 「あなたはあなたを救えなかったかもしれないけど、でもレイジは誰が救ったの?あなたでしょう」
 彼女はいつもの堅い表情を崩さずにいたが、心なしか笑って見えた。
 「あなたはちゃんと救えてるわ。きっと、許してくれるわよ」
 ぼくは彼女の目を見て、そして深く息をした。
 「・・・そうかな」
 「そうよ」
 ぼくはもう一度深呼吸してゆっくりと立ち上がり、背もたれにかけたままの上着を手にとった。
 「行くの?」
 「・・・うん。そうする」
 そう言ってドアのところまで歩くと、狩魔冥が声をかけてきた。
 「それにしても残念ね。もう少し弁護士を続けてたら、あなたをぼろぼろに負かした私が見れていたのに」
 それを聞いて、ぼくはようやく笑った。
 「それはどうかな」
 言いながらドアを閉めると、外はもう暗くなり始めていた。






end


初出(ブログ掲載)
01-07/07/02
02-07/07/03
03-07/07/04
04-07/07/05




emanon  since:07/04/06/fri  後(usiro)