07
私はしばらく布団の中で体を硬直させていた。
先ほどからずっと、隣の布団からうなるような声がやまずにいる。正体を考えるまでもない。この家には私たちふたりしか居ないのだ。
すると、気配が布団から起きあがって膝を抱えるような格好をするのがわかった。それでも声はやまない。
こんなことは初めてだったので、私はただただどうしたらいいのかと考え続けた。もう私の就寝時間などとうに過ぎただろうが、眠気は訪れずに恐怖に似た興奮状態が続いていた。
そのとき、家の前を車が通る音がした。ライトが部屋に差し込むのが確かにわかった。
私は苦労して、音を立てずに気配の方を向き、タイヤがアスファルトをすべる音を待ち続けた。
サアッと波のような音を立てて一台車が通り過ぎていった。その瞬間に私は顔をずらして隣を見た。車のライトに照らされた部屋の中で、くっきりとその姿が浮かび上がる。
父が泣いていた。
さっきからずっと続いていたうなり声は、父の嗚咽だったのだ。呆然と私が彼を見守る中、また車が通っていく。今度はその頬を伝う涙が光った。
「パパ」
思わず声が出ていた。かすれていて、まるで私の声ではないようだった。
父は微かに動きを止めたが、またこらえきれずにしゃくり上げた。
私はのろのろと立ち上がって電灯のひもを引っ張った。かちかちと音を立てて蛍光灯が灯るのを見て、父の後ろに立った。
「パパ」
私はその背中をそっと抱いた。父の背は思ったよりも冷たかったが、しゃくり上げるその振動が直に伝わってきた。
「泣かないで」
それが契機だったのか、父は体を沈めて声を高くした。なぜだか私の目尻にも涙が浮かんだが、それでも泣くまいと目の前の背中を撫でつづけた。
「ぅ・・・うぅ・・・・・・っく・・・」
私は手を伸ばしてティッシュの箱をつかみ、一枚一枚出しては父に差し出した。そうしていつまで続くのかと思った頃、ようやく聞き取れる言葉で話しかけられた。
「・・・ごめん」
「いいよ」
もう私は撫でずに、広いその背中に張り付くようにしていた。
そのまま父は言葉を探しているようだった。
「もう来ないんだ。御剣は」
「・・・うん」
父はまた泣き声を立てた。
さっきからの父の行動の全てが、私には予想外のものばかりだった。父は御剣さんを避けていたのではなかったのか。
―なにより父のような大人でも泣くことがあるのだと、私はただ思った。
父の嗚咽はやまない。
居ても立ってもいられなくなり、私は父の耳元で叫んだ。
「御剣さんは、パパの言うことを聞くために来なくなったんじゃないの!・・・お仕事の時間が変わって、時間がなくなちゃったの」
父のふるえが止まった。私はそのまま続ける。
「パパが”幽霊”なんて言い出したのは、みぬきのためだったって聞いたの。でもね、みぬきは黙ってそんなことされたくないの。だから、もう御剣さんが”幽霊”になる必要はないの。それで”もう幽霊は来なくなった”って言ったの」
しかし、私の言葉は父にとっての100パーセントではなかったようだ。
―当然だ。父は明らかに何かを隠している。その証拠に、彼の行動と理屈に一貫性がない。その父の求める 答えを、私が差し出せるわけがなかった。
私は頬を父の肩胛骨の角に当て、彼が喋りだすのをひたすら待った。
部屋にある音は時計の針の動く音ばかりで、ふたりの息も止まっていた。
「嘘だったんだ」
声はいがらっぽくてよく聞き取れなかったが、それでも私は何とか意味をつかみ取った。
「御剣さんを怖がっていたってこと?・・・それとも他の何か?」
「・・・まず、みぬきのために御剣に会わないことにしたっていうのが、嘘だ」
―あれが嘘?
それでも私は身じろぎせずに話を聞き続けた。
「それで牙流にした言い訳も、嘘なんだ」
「言い訳?」
「どうして御剣に会わないのか聞かれて、適当にでっち上げたのさ。あいつはみぬきの話だけじゃ大人しく信じてくれないだろうからね」
「なんで・・・」
私は動かずに父の背中に張り付いていたが、気づけばその父も身動きせずに話を続けていた。おのずと、会話が最後の核心に近づいているということがわかった。
「なんで、嘘なんか」
父は黙り込んだ。私の背中を冷たいものがさかのぼっていく。この聞き方はまずかったのだ。
慌てて取りつくろうと、頭の中を無数のロジックが飛び交った。父なら―そうだ、父ならどう聞く?その瞬間私の頭に”正しいセリフ”が組み上がった。
「・・・本当のことを言って。御剣さんのこと、怖くなかったんでしょ。私のためでもなかったんでしょう。だから―言うしかないの。本当のことを」
父は頭を抱えて、静かに息を吸い込んだ。今この瞬間だけは、世界中の全てが声を潜めて彼の言葉を待っているような気がした。
それは消えそうな声だった。
「会いたかったんだ」
私は父に体重をかけた。
「でも―こんなことになっちゃったら、もうそんなわけにもいかないじゃないか」
また、あとからあとから大粒のしずくが瞳からこぼれてくるのを見た。父が最後の一音を発したあとは、また嗚咽だけが部屋に戻った。
私は父の背中に手を当てて、じっとその姿を見守った。
あの一時間の茶番も、父と先生との気まずい会話も、全てがこのたった一言の真実のせいだった。
職を退き、私を引き取った父はきっと御剣さんに会いたかったのだろう。会って、なにがしか頼りたいとずっと思っていたのだ。しかし、その会いたいと思ったのと同じ理由で、父は御剣さんには会えなかったのだ。
父にとって御剣さんは、決して触れられない”幽霊”だったのだ。
「大丈夫」
この私の言葉に、根拠などと言うものはかけらもなかったが、それでも言わずにはいられなかった。
そっとふれた父の背中は、今度はとても熱かった。
「大丈夫だよ」
end
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