怪談



01

 時計を見ると出かける時間になっていたので、私は父に声をかけた。
 「じゃ、いってきます」
 すると父の顔はしかめられて、「駄目だよ」という声が続いた。
 「六時まであと十分あるだろう」
 有無をいわさぬその声に、私は諦めて「はあい」と返事をした。この調子では十分待たない限りここから出してくれないだろう。
 父は―成歩堂龍一は満足した顔で私に微笑みかけた。しかたなく私は静かに彼の向かいに腰掛けて、隣席の人物に口をとがらせた顔を向けた。
 そう、言い忘れていたがここは事務所の部屋で、今日は私たち親子の他に一人客がいた。
 その客はソファに腰掛けて、その長い足を組んだ姿勢を崩さぬままに、穏やかな声で問いかけてきた。
 「なぜみぬきちゃんは、六時まで出てはいけないんです?」
 客は、父の友人である牙流先生だった。父はと言えば、憮然とした表情で先生の顔をにらみつけて黙り込んだ。仕方なしに―というより遅刻の危険を冒さねばならなくなった意趣返しに、私は先生に答えを教えてあげた。
 「幽霊が出るんです」
 先生が笑わなかったのを、私は心の中で評価した。実際彼は眉一つ動かさずに父の方を向いた。
 「幽霊、ですか」
 ちら、と父がこちらを見た。あたしは気にせず先生に笑いかけた。「そうなんですって。ね、パパ」
 「ああ」
 父のひきつった顔を見て、私は勝ち誇った微笑みを向けた。
 「確かに出るんだよ。牙流、君も気をつけた方がいい」
 「残念ながら、まだ私は会ったことはありませんが」
 あくまでも先生の語調が静かなのがかえって恥ずかしいのか、父は頭をかく仕草で先生から目をそらした。
 「なぜ六時なんです」
 「正確には五時から六時までの一時間です。・・・その間に外に出ると幽霊に会っちゃうんです。怖いですねえ」
 今度は私が父の顔を見た。彼は私の目をじっと見たままますます頬をひきつらせた。
 「その通りだよ。だからその間はぼくもみぬきも外に出ない」
 「でも、それでは不便でしょう」
 「不便です」
 答えを遮られて不服そうな父を置いて、私は言葉をつないでいく。
 「出かけるときはこうして六時まで待つか、たとえ早すぎるとしても五時前に出ます。戻ってくるときも油断は出来ません。走って帰るか、六時を過ぎるまでどこかで時間を潰さなきゃいけないんです」
 「それは大変だ」
 「大変です」
 それを聞いて、初めて先生が声を立てて笑った。つられるように私も笑ったが、父だけが相変わらずの表情を崩さなかった。
 「でも、どうして幽霊に会ってはいけないんです?」
 今度の質問は父の方に向かって投げかけられていた。
 「だって怖いじゃないか」
 投げやりなその答えに、先生は「全くです」と言った。それがいかにも深い同情を含んでいて、今度は私だけ笑った。その私に、先生は柔らかな声音で質問してきた。
 「みぬきちゃんは会ったことがあるの?」
 「いいえ、みぬきはいい子にしてますから」
 「確かに、そうです」
 そして、先生はそのまま顔を父の方に廻して同じような声で聞いた。
 「成歩堂は」
 父は伏せていた目を上げて、先生と目を合わせた。
 「会ったよ」
 その声は静かだったが、部屋の端まで響いて跳ね返ってきた。
 「会ったんですか」
 先生は少し強い声を出したが、今度は父は目をそらさなかった。
 「ああ、会ってなきゃ誰がこんなことするんだよ」
 先生は足の上で組んだ自分の手を見つめて、「そうですか」とだけ言った。
 父は、もうどこだかわからない場所を見たまま霞のような声で「そうだ」と返した。
 私はそのふたりの心中まで伺いしれなかったが、それでもどこか空気の変わったのを感じずには居られなかった。私の背後にまで満ちたその得体の知れない雰囲気に、私は思わず振り返ったが、当然そこには何もいなかった。
 結局、その会話のすぐあとにこの日の歓談は中断され、先生は事務所をあとにした。何とも歯切れの悪い別れだった。
 そして驚くことに、この日のあと先生が事務所を五時から六時の間に訪ねてくることは二度となかった。
 



02

  仕事をしたかった。
 けれど、スケジュールの微妙な調整のおかげで一時間ほどの空白が割り込んでくる。
 そうして時間が空いてしまうと、解決しなければならない有象無象が頭の中を通り過ぎていくのを止める手だてはなかった。
 その解決しなければならないことの、そもそもの発端は私ではなかった。つまり、成歩堂の不幸な―私にはそうとしか言えない―事件こそが私の心配事の、いわば種の種だった。
 例のニュースがあった直後、それこそ仕事の空きなど気にせずに会いに行った。そのころ彼の身の周りはまだあわただしく、彼自身もその不祥事の後片づけに奔走していた。査問会の結果も出ていない頃だったが、恐らく結果は絶望的だろうという噂を聞いた。結局彼と会えたのはほんの短い間のことだったが、それでも色々な話をした。私が一番聞きたがっていた例の事件については、時期のせいか一言も聞き出せなかった。最後にこれからどうするのかと聞いた私に、彼は答えず気にするなと言った。
 しかしまたその直後には、一切連絡がつかなくなってしまった。
 どういうわけかと思い事務所まで訪ねていったが、それすら彼とコンタクトを確実にとれるというわけではなかった。仕事を続けられる状況でない以上、彼の事務所が閉まっていてもおかしくはないのだが、聞くところによると彼は例の事件の事後にも精力的にあちこちを調べまわっているようだった。全く事務所にいない、あるいは事務所を通じても連絡が取れないというのは考えにくい。折しもそのころ彼のバッジがとうとう剥奪されるという報せが私のもとにまで届いた。それでも彼からはなんの連絡もないままだった。
 どうやら私に会わないようにしているのではないかという考えが脳裏を掠った瞬間、私は思わず行動に移していた。
 例のスケジュールで空く一時間に執務室を抜け出し、成歩堂法律事務所の戸を打ち破らんばかりの勢いで叩いた。
 渋々といった様子で成歩堂が顔を出したが、すぐに後ろ手で戸を閉めて廊下で話をはじめた。
 そのとき私の方は若干の興奮状態にあったが、彼は相次ぐ面倒のせいか疲れ切ってもの憂げな表情を浮かべていた。
 「誰かいるのか?」
 「まあね」
 口数の少ないのも疲れのせいのようだった。
 「事件の関係者か」
 「そうだ」
 そうしている間にも、成歩堂はなんども部屋の中を注視するような素振りを見せて、部屋に帰りたがっているようだった。
 「・・・なにがそんなに気になるんだ。中にいるのはいったい誰なんだ?」
 いや、としばらく口を濁していたが、最後に私の目を見て意を決したようだった。
 「ムスメだ」
 しばらく言われていることの意味がつかめずにいた。
 「そういうわけだから、ごめん。しばらく―」
 コンコン。
 ―私はノックと、それに続いて書類が床に広がる音で気を取り戻した。誰か来たのだろう。
 散らばった紙を拾い集めながら自分に言い聞かせる。そうだ、あれは”そういうこと”で決まったのだ。今さら気を焼いても仕方がない。
 とはいえ、たいてい人の心というものはそう物わかりの良いものではない。
 私はたしかにそれがしょうがない事だということを深く理解しているが、それと同時になぜ私がそんな彼の事情で割を食わねばならないのかちっとも納得がいかなかった。子どものようだが、人はいつもそういう間逆のことを考えている。ただ大人になれば表に出さずに済むだけだ。
 ようやく全て集め終わり、しびれを切らしているであろうドアの外の人物のところへ向かった。歩きながら時計の方を見る。
 どうせ大した用事ではないだろう。すぐ終われば時間がある。
 なにしろまだ”六時前”なのだ。
  



03

 同居に際して、父が私に言い渡した”やくそく”は奇妙なものだった。
 ―午後5時から6時の間は家の前に出ないこと。
 「なんで?」
 と聞くと父は答えを渋ったが、しつこく訪ねる私に根負けして、ある日なだめるように答えた。
 「幽霊が出るんだ」
 拍子抜けしたのは言うまでもない。父は本気で私がまだそんなことを信じるような歳だと思っているのだろうか。
 それで父の目を見上げたが、その目はイタズラっぽく光っていた。私が信じるかどうかは関係なく、もう聞くなというメッセージだったようだ。
 そこで、”わかった”という意味を込めて目配せすると、優しく頭をなでられた。
 父は本当に私をその”幽霊”に会わせたくないようだった。私の出入りにはとても厳しかった。幽霊を信じていない私には、それがとても煩わしかった。
 しかしそれから数ヶ月がたった今、私はすでに何度か”幽霊”に遭遇していた。
 理由は簡単だ。私は何度か”約束”を破っている。
 遊び盛りで働き盛りの娘に、この時間に事務所の前を通るなと言うのは、やはり無理な話だ。私は何度もその”幽霊”が出るという時間に事務所を出入りした。
 その結果わかったことがいくつかある。
 まず、”幽霊”は五時から六時の例の時間以外に見かけることはない
 次に、その”幽霊”は毎日いるわけではない。来る日もあるし、来ない日も多い。実際見かけない日の方が多いかもしれない。だが、来てもせいぜい十分ほどで帰ってしまう。これは私がわざわざ物陰から観察した結果で、それより短いこともないが、それより長く居ることもまずなかった。
 そして最後に、”幽霊”に関して重要な事実がある。
 ”幽霊”の正体は生きた普通の男性だということ。
 いや、人が普通かどうかが外見で決まるとすれば、あきらかに”幽霊”は普通以上の容姿と身なりをしていた。誰が見たって彼が責任ある仕事に就いていることがわかるような、今の父とは正反対の人物だ。
 ”幽霊”は、いつも向かいの道路からじっと事務所の窓―この時間、中からはブラインドを下ろしている―を見上げている。
 そして、それは当然今日もだった。
 「こんばんは」
 後ろから声をかけると、”幽霊”は一瞬背中を痙攣させてからものすごい勢いで振り向いた。この近距離で顔を見るのは初めてだったが、おおむね思った通りの美丈夫だ。私の顔を見て、あきらかに愕然とした表情を浮かべている。
 「どうも」
 それでも男はそっけない声で表情を押し殺して、そのままきびすを返して立ち去ろうとした。しかし、私はそれを許すわけにはいかなかった。私が今日彼に声をかけたのはただの気まぐれなどではない。彼には聞かなければならないことがあるのだ。いつか必ずこうしなければならないということを、私はわかっていた。
 「急ぐことないですよ。まだ六時まで時間はあります」
 その言葉に、彼は大きく目を見開いて立ち止まった。
 「知っているのか?」
 何をだろう、と思ったがそんな表情は見せずに意味ありげに微笑んだ。
 「知ってます」
 と、少しツバを持ち上げる。私たちの目が合った。
 目の前で、ゆっくりと男の口が開く。
 「君は―成歩堂みぬきくん・・・だな」
 「はい。あなたの―お名前は?」
 私の胸は否応なしに高鳴った。あの私を煩わせ続けた”幽霊”である目の前の男が、ついに”幽霊”でなくなるのだ。
 男はそんな私の心中も知らずに答えを言った。
 「御剣怜侍、だ」



04

 「まるで幽霊だよ」
 「何がです」
 「御剣だよ」
 ―この会話をした場所がどこだったのかも忘れてしまった。ただ、テーブルを挟んで話していたのは覚えている。
 「・・・なぜ、検察庁トップの彼が」
 「そういうことじゃないんだよ」
 ―確か成歩堂は、終始嫌そうな顔を浮かべたまま私の向かいにいた。
 もちろん御剣怜侍の名前は知っているが、私が弁護士として知っている以上のことは何もなかった。おかげで、彼の言うことは先ほどからどこかピンと来ない。
 何より、彼が言う”幽霊”の意味もよくわからない。私の知る限り、御剣検事は健在である。
 「そういうことじゃないんだよ。ほら、つきあいが長いから・・・」
 ますますもってわからない。
 「生きている人間に幽霊とは、あまり気持ちのいい話ではありませんね」
 そう言って私はカップをかき混ぜた。
 ―あのとき私が飲んでいたのはなんだっただろう。
 「気持ちがよくないのはぼくの方だね」
 私は笑った。他にリアクションの取りようがなかったので。成歩堂は反応しなかった・
 「あいつは知ってるんだよ」
 「何をです?」
 ―そのとき一瞬会話に間が空いたような気がした。気のせいだったのだろうと思うが。
 「弁護士をやめる前のぼくをだよ」
 「・・・私だって知っていますよ」
 「ケタが違うよ」
 「違いますか」
 「何しろ向こうは再会して・・・三年、だからね」
 「・・・でも他にもいるでしょう、そのころのあなたを知っている人なんて」
 「そりゃあいるさ」
 今度は彼がカップをかき混ぜた。
 「例えば真宵ちゃんなんか、もう知ってるどころの話じゃない。でも、彼女は許してくれる気がするんだ。弁護士でなくなったぐらい、ちょっと驚いてそれで水に流してくれそうだと思うんだ。そうじゃない?」
 あいにく、私は彼の言う綾里真宵とは面識がなかった。
 「女の人は、仕事がなくなった位にしか考えないような気がするんだ。なんていうかこう・・・男と女は違うからね」
 「わかるような気はします」
 「さてそれで、弁護士としてつきあいの長い男なんていったら、商売敵だの仕事だけの仲だの・・・そんなんばっかりだろ。きっと、汚職で消えた男の事なんて、きっとすぐに忘れるだろうね」
 そこで成歩堂は言葉を切って目を伏せた。
 「でも、あいつだけはそのころのぼくをずっと覚えているんじゃないかと思って」
 「つまり」
 私は、彼が何をそんなに怖がっているかがだんだんとわかってきた。
 「あなたが忘れたいことをずっと御剣検事が覚えているから―だから彼が”幽霊”なんですか?」
 「もう終わっちゃったことは元に戻らないんだからね。幽霊だよ」
 「でもそれなら」
 言葉を切って目の前の男の目を覗き込む。弁護士だった頃の彼と何が変わったわけではないのだが、やはり違う人間の目を覗き込んでいるような気分だ。
 「幽霊なのは昔の君自身でしょう」
 成歩堂は口角をあげたが、笑顔と言うにはほど遠かった。
 「ご明察だね。ぼくの過去と御剣は―切り離せないんだ」
 ―そのあとどういった話をしたのかも、今はもう記憶の底だ。
 私は意識を”今”に戻した。
 振り向いて、彼の事務所のある窓を見上げる。
 彼はまだ”幽霊”を恐れている。会うまいと必死で逃げている。
 だが、それは私にしたって同じ事だ。私も昔の彼の”幽霊”になど絶対に会いたくはない。なにしろ私が殺したのだ。
 「五時から六時」
 そう言った自分の声がかすれているような気がして、後ろを振り向くことなく帰路についた。



05

 「実はずっと・・・君に会いたいと思っていた」
 「奇遇ですね。みぬきもです」
 私と御剣さんは、喫茶店のテーブルを挟んで向かい合っていた。
 私は運ばれてきたクリームソーダのグラスをかき混ぜた。
 「君は・・・私を知っていたのか?」
 「時々見かけていました。パパが会いたくないらしいってことも」
 知ってます、と言うと御剣さんは苦笑いを浮かべて目をそらした。
 「嫌われたものだ」
 自嘲を含んだその声に、どこか大人げない印象を受けた。
 しばらくの空白があり、御剣さんが先を続けないのを見て、私は身を乗り出した。
 たったひとこと、これを聞くためだけに私は事務所の時計を遅らせてまで彼に声をかけたのだ。
 「どうしてなんですか?」
 御剣さんは目を上げて答えた。
 「どうして、とは」
 「なんでパパと会わないんです?」
 数秒の間があったあと、御剣さんは口を開いた。
 「君はどう思うんだ?」
 「パパは、・・・どうしても御剣さんに会いたくないようなんです」
 目の前の男は黙って聞いていた。
 「その・・・父の事件のことで、ケンカでもしたのかと思ってました」
 「そういうことではない。・・・だが、会いづらくはなった」
 「何です?」
 「いや・・・、大したことではない」
 あきらかに話したくないという顔だ。しかし他のことならともかくこればかりは、どうしても聞かなければならない。わたしは一生忌々しい一時間に縛られていたくはないのだ。ましてや本当は居もしない幽霊のと付き合っていく気など更々ない。なんとかして彼の口を開こうと、私は切り札を切る。
 「幽霊が怖いんですって」
 「なんだと・・・」
 案の定、彼は顔を上げた。
 「みぬきは、パパに五時から六時は絶対に事務所の前を通っちゃいけないって言われてるんです。・・・なぜだかわかりますか?幽霊が出るんだそうですよ」
 「・・・幽霊」
 「みぬきはこのままじゃ、一生その一時間に外出できなくなっちゃうんです。・・・パパが幽霊を怖がらなくなるまで」
 目の前の男は少しうろたえた。私はたしかに会話の手綱をつかんでいる。
 「どうしてパパは”幽霊”を怖がるんです?このまま行くと、パパと御剣さんは二度と会えなくなっちゃいます」
御剣さんは自分の手を見ていた。水の入ったグラスから、からんと音が響いた。
 「構わない」
 「え・・・」
 思わず声が裏返りそうになるのを押しとどめて、イスに深く座り直した。
 「驚いたな。思ったよりずいぶんしっかりしている」
 そういって彼は微笑みかけてきたが、私は切り札をへし折られてしゅんとなっていた。
 「君がそこまで言うなら話しておいた方がいいだろう。子どもだからと黙っていて済まなかった」
 「・・・黙っていたのはパパです」
 いや、と言って彼は私を遮った。「ふたりで決めたんだ」
 「どういうことですか?」
 「・・・事件のあと、成歩堂には君というムスメが出来た。そして、その君は事件の関係者だ。・・・容疑者のムスメという」
 その言葉にそれほど感慨はなかった。・・・もう聞き飽きていたし、父が私に、そのようなことを言われて私が負い目を感じなければならない謂われは何もないのだと言うことを、それは根気よく教えてくれていたからだ。
 「君が事件で負ったダメージも少なくはないだろう。そして私は、幸か不幸か君を追いつめた側の人間ということになる」
 「御剣さんは今回の関係者じゃないでしょう?」
 「だが、彼も弁護士を辞めた今、司法に関わることとはいったん距離を置きたいと言っていた。しばらく私は、成歩堂や君とは会わないことになったんだ。・・・いや、ひょっとしたらもう一生会わない方が君のためだったのかもしれないな」
 「そんな・・・!でも・・・事務所に来てたじゃないですか、あれは・・・」
 「やはり・・・気になっていたのだ。彼の次の職さえ私は知らないんだ。せめて元気にしているか見にいこうかと思っていたのだが・・・。こうして君に見つかってしまったわけだ」
 「じゃあ、五時から六時の幽霊っていうのは・・・」
 「ちょうどその時間、私の仕事が空くのだが・・・。私は約束を破っていたのだからな。彼は私に君を会わせまいと思ったのだろう。彼は怖がってなぞいないのだ。そう―」
 御剣さんは、どこか淋しそうな表情で続けた。
 「”幽霊”というのは―私が”居ないもの”ということなのだろう」
 平気そうな口振りだったが、彼が自分自身のセリフに傷ついているのは私にもわかった。
 私は御剣さんの話を聞きながら腹を立てていた。こうして目の前で御剣さんが傷ついているのは私のせいであり、そして父はそのことを私に黙っていたのだ。
 腹を立てながら、私は目の前の彼と同じように傷ついた。
「だが―これももう終わりだな」
 御剣さんは窓の外の木陰を眺めながら呟いた。
 どういうことかと顔を上げると、淡い笑みを浮かべた彼と目が合った。



06

 なんで嘘なんかついているのやら、今ではその理由もおぼつかなくなっていた。
 しかし待てよ、とぼくは思い直した。牙流や御剣に言ったことは、何もまるきり嘘ではない。理由としてはどこから見てもおかしくないだろう。牙流にした”幽霊”の話も、御剣にしたみぬきの話も、同じ出来事に違う説明をつけたく些細なごまかしだ。それなら、ぼくが嘘をついているのはみぬきだけということになる。脳裏にはみぬきのいぶかしげな顔が浮かんだ。ああは言ったが、みぬきのような子は幽霊など信じてはいないだろう。
 いや、違うな。結局のところ、どちらも本当のことを隠すためのでまかせだ。何かを隠すための言葉なら、決してそれは真実ではない。
 しかしなぜ嘘をついてはいけないのか?この場合誰に不利益を出すわけでもない。嘘はつき続けるべきだ。
 その時、思考を打ち破るようにドアが開いた。
 「ただいまあ」
 みぬきの声に振り向いて、おかえりと声をかけるとそばにみぬきが駆けてきた。
 「おやつはー?」
 目を輝かせて聞いてくるので、もうそんな時間だったかと時計を見た。しかしその時計のせいで、ぼくはすぐに顔をしかめた。
 「五時半・・・」
 「あれえ、・・・あっ」
 みぬきは何か思い当たることがあるのか、口に手を当てて押し黙った。
 「この時間にうちの前を通っちゃいけないって、言っただろ」
 表には動揺が表れないように努めたが、内心ついにみぬきが御剣と会ってしまうのではないかとひやりとした。
 「えっと・・・違うの。ずれてるのは時計なんだよ。ほらっ」
 みぬきはテレビに近づいて、そばにあったリモコンでテレビの電源を入れた。ちょうど夕方のニュースを映し出した画面のすみには、”18:06”という表示が浮かんでいた。
 「30分ぐらいずれてるの。ほら、言われたとおりに六時を過ぎてるでしょ」
 「何でずれてるの?」
 「・・・え」
 みぬきは、すっとぼくから目をそらした。何か知っている・・・いや、この事務所に訪れてくる人間の少なさを考えたら・・・・。
 「みぬきが・・・やったのか?なんで?」
 不可解な彼女の行動に、ぼくの頭は残念ながらついて行き損ねていた。しかしみぬきは顔を上げて、ぼくの目をじっと覗き込んだ。
 「パパ、今日は”幽霊”、出た?」
 一瞬からだが動かなくなった。しばらくそうしてじっとしていると、やっと口の神経と脳がつながって震えるような声が出た。
 「知らないよ」
 残念ながら、これも嘘だった。ぼくは、確かに今日は彼が来ていないのを知っていた。
 「・・・そう」
 みぬきは呟いて、じっと足元を見ていた。
 「・・・みぬき」
 「パパ」
 遮る声を出したみぬきは、またぼくを見ていた。
 「パパ、あのね。もう幽霊は出ないの」
 「・・・まさか」
 みぬきは、表情を変えずにただじっとこちらを見つめていた。
 ぼくは息をのんだ。
 ―なぜ嘘をついてはいけないのか?
 これが、答えだ。



07

 私はしばらく布団の中で体を硬直させていた。
 先ほどからずっと、隣の布団からうなるような声がやまずにいる。正体を考えるまでもない。この家には私たちふたりしか居ないのだ。
 すると、気配が布団から起きあがって膝を抱えるような格好をするのがわかった。それでも声はやまない。
 こんなことは初めてだったので、私はただただどうしたらいいのかと考え続けた。もう私の就寝時間などとうに過ぎただろうが、眠気は訪れずに恐怖に似た興奮状態が続いていた。
 そのとき、家の前を車が通る音がした。ライトが部屋に差し込むのが確かにわかった。
 私は苦労して、音を立てずに気配の方を向き、タイヤがアスファルトをすべる音を待ち続けた。
 サアッと波のような音を立てて一台車が通り過ぎていった。その瞬間に私は顔をずらして隣を見た。車のライトに照らされた部屋の中で、くっきりとその姿が浮かび上がる。
 父が泣いていた。
 さっきからずっと続いていたうなり声は、父の嗚咽だったのだ。呆然と私が彼を見守る中、また車が通っていく。今度はその頬を伝う涙が光った。
 「パパ」
 思わず声が出ていた。かすれていて、まるで私の声ではないようだった。
 父は微かに動きを止めたが、またこらえきれずにしゃくり上げた。
 私はのろのろと立ち上がって電灯のひもを引っ張った。かちかちと音を立てて蛍光灯が灯るのを見て、父の後ろに立った。
 「パパ」
 私はその背中をそっと抱いた。父の背は思ったよりも冷たかったが、しゃくり上げるその振動が直に伝わってきた。
 「泣かないで」
 それが契機だったのか、父は体を沈めて声を高くした。なぜだか私の目尻にも涙が浮かんだが、それでも泣くまいと目の前の背中を撫でつづけた。
 「ぅ・・・うぅ・・・・・・っく・・・」
 私は手を伸ばしてティッシュの箱をつかみ、一枚一枚出しては父に差し出した。そうしていつまで続くのかと思った頃、ようやく聞き取れる言葉で話しかけられた。
 「・・・ごめん」
 「いいよ」
 もう私は撫でずに、広いその背中に張り付くようにしていた。
 そのまま父は言葉を探しているようだった。
 「もう来ないんだ。御剣は」
 「・・・うん」
 父はまた泣き声を立てた。
 さっきからの父の行動の全てが、私には予想外のものばかりだった。父は御剣さんを避けていたのではなかったのか。
 ―なにより父のような大人でも泣くことがあるのだと、私はただ思った。
 父の嗚咽はやまない。
 居ても立ってもいられなくなり、私は父の耳元で叫んだ。
 「御剣さんは、パパの言うことを聞くために来なくなったんじゃないの!・・・お仕事の時間が変わって、時間がなくなちゃったの」
 父のふるえが止まった。私はそのまま続ける。
 「パパが”幽霊”なんて言い出したのは、みぬきのためだったって聞いたの。でもね、みぬきは黙ってそんなことされたくないの。だから、もう御剣さんが”幽霊”になる必要はないの。それで”もう幽霊は来なくなった”って言ったの」
 しかし、私の言葉は父にとっての100パーセントではなかったようだ。
 ―当然だ。父は明らかに何かを隠している。その証拠に、彼の行動と理屈に一貫性がない。その父の求める 答えを、私が差し出せるわけがなかった。
 私は頬を父の肩胛骨の角に当て、彼が喋りだすのをひたすら待った。
 部屋にある音は時計の針の動く音ばかりで、ふたりの息も止まっていた。
 「嘘だったんだ」
 声はいがらっぽくてよく聞き取れなかったが、それでも私は何とか意味をつかみ取った。
 「御剣さんを怖がっていたってこと?・・・それとも他の何か?」
 「・・・まず、みぬきのために御剣に会わないことにしたっていうのが、嘘だ」
 ―あれが嘘?
 それでも私は身じろぎせずに話を聞き続けた。
 「それで牙流にした言い訳も、嘘なんだ」
 「言い訳?」
 「どうして御剣に会わないのか聞かれて、適当にでっち上げたのさ。あいつはみぬきの話だけじゃ大人しく信じてくれないだろうからね」
  「なんで・・・」
 私は動かずに父の背中に張り付いていたが、気づけばその父も身動きせずに話を続けていた。おのずと、会話が最後の核心に近づいているということがわかった。
 「なんで、嘘なんか」
 父は黙り込んだ。私の背中を冷たいものがさかのぼっていく。この聞き方はまずかったのだ。
 慌てて取りつくろうと、頭の中を無数のロジックが飛び交った。父なら―そうだ、父ならどう聞く?その瞬間私の頭に”正しいセリフ”が組み上がった。
 「・・・本当のことを言って。御剣さんのこと、怖くなかったんでしょ。私のためでもなかったんでしょう。だから―言うしかないの。本当のことを」
 父は頭を抱えて、静かに息を吸い込んだ。今この瞬間だけは、世界中の全てが声を潜めて彼の言葉を待っているような気がした。
 それは消えそうな声だった。
 「会いたかったんだ」
 私は父に体重をかけた。
 「でも―こんなことになっちゃったら、もうそんなわけにもいかないじゃないか」
 また、あとからあとから大粒のしずくが瞳からこぼれてくるのを見た。父が最後の一音を発したあとは、また嗚咽だけが部屋に戻った。
 私は父の背中に手を当てて、じっとその姿を見守った。
 あの一時間の茶番も、父と先生との気まずい会話も、全てがこのたった一言の真実のせいだった。
 職を退き、私を引き取った父はきっと御剣さんに会いたかったのだろう。会って、なにがしか頼りたいとずっと思っていたのだ。しかし、その会いたいと思ったのと同じ理由で、父は御剣さんには会えなかったのだ。
 父にとって御剣さんは、決して触れられない”幽霊”だったのだ。
 「大丈夫」
 この私の言葉に、根拠などと言うものはかけらもなかったが、それでも言わずにはいられなかった。
 そっとふれた父の背中は、今度はとても熱かった。
 「大丈夫だよ」






end


初出(ブログ掲載)
01-07/06/01
02-07/06/02
03-07/06/03
04-07/06/04
05-07/06/05
06-07/06/06
07-07/06/08




emanon  since:07/04/06/fri  後(usiro)