いっつー
01
「こう・・・頭痛がするんだ」
私が額に手を当てると、目の前に座った女は私をちらと見、そしてまた興味のなさそうな顔で目線をカップに落とした。
「ふうん」
そう言うと女はカップを口に付けて会話を中断した。それを見て、私はしかたなく窓の外に目を移した。
眼下にはいくつもビルが建ち並び、緻密な景色を根気よく組み上げていた。細長い方形の立ち並んだ地面はぎっしりと埋まっていたが、地上で見るより遙かに広い空は悪くない景色だった。
そうは言っても、ひとりきりでこの景色を眺めているのも居心地が悪くなってきて、私はもういちど表情なく紅茶をすすっている女に目を戻した。
彼女は普段日本にいないのだが、珍しく仕事の都合でこちらにやってきていた。今は、私のところへ顔を出しにやってきたのを、こうして捕まえて話をしているところだった。
下を向いた女は、そのままは卓上にあった茶さじでカップをかき混ぜるとまた私を見上げた。
「あいにくアスピリンは持ってないわね」
「薬ならある」
私はなるべく苛立ってないように見せようと思ったが、露骨に口角を上げて微笑んだ女の顔を見る限り、まるでうまくいかなかったようだ。
「なにがいけないの。頭痛ぐらい誰でもするわ」
彼女はソファの背に身を預けて、見下すような目で私を見た。そしてその目はこうも言っている。”早く話せ”と。
女は何か面白い話を期待しているようだったが、私がこれからしようと思っている話が彼女の眼鏡にかなうとは思えなかった。それでも、最後まで話すと決めたからにはここでやめるわけにはいかない。そうして私はなんとか口を開いた。
「緊張するんだ」
予想通り、女の顔は曇った。それでも女の好奇心は死ななかったようだ。
「あなたが?緊張?いったい何に?」
女は背をソファに預けたまま言った。私は言うべきかどうか迷った。しかしそこは最初から隠して話すはずだった。私は彼女に答えず話を先に進めることに決めた。
「前はそんなことはなかったんだが。このところ会うと妙に気が張る。それで別れると緊張が解けて・・・頭痛がする、というわけだ」
「え?誰?」
私はやはり答えなかった。
「なんだろうな。別にもめたりしたわけではないのだが」
見れば、女は私をじっと見て動かない。何も言わずにそうしているので、私はひとりで話を続けた。
「苦手な相手だとかいうわけでもない。気の合うやつだ」
少し待ったが、女が会話を挟み込んでくる様子はなかった。私はそのまま予定通りの結論へと語を進める。
「だが何かと仕事で会うものだから・・・疲れがたまっているせいなのかもな」
私はちらと女に目をやった。彼女は、少し拍子抜けしたような顔で私を見ていた。何か言うのかと思ってしばらくその顔を見ていたが、何も反応が返ってこないのに失望してため息が出た。
私はカップの底に少しだけ残った紅茶を飲み干すと、ソファから立ち上がって扉の方を見た。
「悪かったな、忙しいところを。今日はそろそろ」「どうして」
女が突然口を開き、私はまた彼女を見た。その顔はさっき見たとおりの、拍子抜けした少し間の抜けた顔のままだった。
「どうして私に言うのかしら」
私はその言葉の意味が分からなかった。ただ話が長くなるような気がしてまたソファに腰掛けた。
「あなた、見当ついてるんでしょう。本当は。でなきゃ自分でそうだってことにしたんじゃないかしら?なんにせよわざわざそれを私に言うのは」
そう言いながら、彼女の顔はだんだんといつもの凛々しさを取り戻していくように見えた。
「それと逆のことを私に言ってほしかったんでしょう。でもね、あなたがそう自覚してるんなら私がたとえ何を言ったって、あなたの気が晴れたりはしない」
私はゆっくりと女から目をそらして窓を見た。地平線までのびた空は青く澄み渡って見えた。
「たとえ受け入れがたくても」
女の声は霧の中のようにぼんやりと聞こえた。
「あなたがそうだと思ったなら、それが真実よ」
私はただ黙って空を見ていた。女の答えは、彼女自身が言うように私の望んだものではなかった。しかしひょっとしたら、私は女がこう言うのをどこかで期待していたのかもしれないとも思った。それはひどく戸惑う考えだった。
「もう、いい?」
いつの間にか女は立ち上がっていた。私はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「悪かったな、忙しいところを」
その答えが不満だったのか女は一度鼻を鳴らしたが、何も言わずに部屋を出ていった。
02
何か声がした。だが、それが何を言っているのかまでは私にはわからなかった。 まるで私が水の中にいて、相手が水面から呼びかけて来ているような、そんな声だった。
「おい、起きろよ」
突然明瞭になった声に、私は思わず体を跳ねさせた。そうしてはっきりした頭でまわりを見てみると、目の前には不機嫌そうな男の顔があった。柔らかい感触に手元を確認すると、私がいるのはソファの上だった。
「勝手に来て勝手に寝てくなよ」
そう言って男は背を向けて離れていった。私は目を閉じ、よく自分を落ち着かせた。
私は少しずつ記憶を辿ってみた。確か私は、メイと別れてからまっすぐにここを訪れたのだ。男は不在だったが事務所の鍵は開いていて、私はソファに腰掛けて待つつもりだった。
「いつ、来た・・・?」
喉が少しいがらっぽかった。明らかに寝起きだ。待っているつもりが、いつの間にか眠ってしまったのだろう。私は何だか決まりが悪くなった。
「さっきだよ」
声はくぐもって聞こえた。どこか別の部屋にいるのだろうか。
「戻ってきたら鍵が開いてて、お前が寝てるじゃないか。驚いたよ。ウチの鍵なんか持ってたのか?」
私はあきれて一瞬リアクションを返せなかった。
「最初から開いてた。不用心だと思った」
私がそう言って返すと、向こうの返事も一瞬遅れて返ってきた。
「まさか」
「そうだ」
すると、今度は言葉でなく深いため息が返ってきて、その情けない音に私は思わず声を立てて笑った。
「笑い事じゃない」
そう言いながら、男は再び姿を現した。両手に湯呑みを握っている。男はそろそろと近づくと、「つつ」と言いながら先に客用の方を卓に置いた。
「それで、何か用?」
まっすぐに男の目が私を見たので、私はとっさに目を泳がせた。
「そうだな」
私はそう言って、すぐに続きをつなげようと思った。
しかし私の体は舌先のほんの小さな動きさえしなかった。それでも最初はすぐに続きを口に出せると思った。が、まさに言わんとする瞬間に恐怖がこみ上げ、またしり込みしてしまうのだった。そうして私が怖じ気づいているうちに肝心の言葉はあさっての方向へ消えていってしまい、もう一度と言葉を組んでみても最初の恐ろしさは体に染みついて、結局男に伝えられないまま私は床を見た。
「なんだよ。言いづらいことなのか?ならますます後に回すなよ。怖いじゃないか」
私は男に聞こえないように、口の中だけで「怖い」とつぶやいた。そもそも私は最初から怖がっていたのかもしれない。
「言えよ、ほら。気になるじゃないか」
男はそう私を急かしたが、当の私はすっかりその気が失せていた。なにか良い言い訳を思いつかないかと頭を探ったが、この状況をなかったことにしてくれるような都合のいいものは浮かばなかった。結局私はばつの悪い思いで「忘れた」とだけ言った。
「は」
目の前の男はまるで信じていない様子だった。
「なんだそれ」
「・・・そういうこともあるだろう」
それだけははっきりと伝えると、私は目を閉じて強制的にこの話を終わらせた。
男はしばらく黙ってじっとしていたが、不意に立ち上がると「あ、そ」と言って部屋の奥へ行った。
男が目の前からいなくなると、私はゆっくりと目を開けた。と、奥の部屋の明かりが消えた。それからまた男が私のいるソファにまで戻ってきて顔を出した。
「もう帰るよ」
私は立ち上がらずに、上目遣いで男を見た。
「仕事は?いいのか」
男は「そういうこともあるさ」と言って悪戯っぽく笑った。それから、男は上着を抱えると私の隣に立ってソファの背をトントンと叩いた。
「はいはい、出た出た」
私はその声に追い立てられるようにして立ち上がると戸口へ向かった。男は、私が廊下に出たのを確認すると、ドア横のスイッチを切ってドアを閉めた。
明かりの消えた事務所はすっかり真っ暗になっていたが、それはドアの外の世間も同じようだった。どうやら私は随分眠り込んでいたようだ。男について建物を出ると街灯がまぶしかった。
「ああ、今日もよく働いた」
そう言いながら男はのびをした。街灯で出来た長い影も一緒にのびをして、また元に戻った。
「もう戻らなくていいのか?」
「え?」
影を見ていた私は、男の言葉を聞きはぐった。それでも男は特に気分を害した様子もなく言い直した。
「仕事はもう終わりなのか?戻る必要はない?」
「ああ。今日はこのまま帰る」
男は少しだけ笑ったようだった。
「じゃあ、メシでもどう。なんでもいいからさ」
いつもなら「はい」も「いいえ」も考えずに出てくるが、今日の私は黙り込んで考えてしまった。男はそんな私を見るとスローな瞬きをした。不信がられているのではないかと思った私は、慌てて「いや」と答えた。
「今日は・・・」
それで男は合点したようで、「そう」とつぶやいて微笑んだ。
「じゃ、また」
男はそう言って何も聞かずに後ろを向いて去っていった。
そうだ、と頭の中に声が響いた。
そうだ、私たちはここでなにか詮索するような水臭い仲ではない。いわゆる気が置けない仲というやつだ。言葉を変えれば、腐れ縁だの親友だのなんでもあるだろう。恐らく世界中にあふれ、珍しくもなんともない普通の関係だ。
それでも私は、去っていく男の背中を見ながら緊張がほぐれ、ゆっくりと頭痛が襲ってくるのを止められなかった。
03
「・・・タイミング悪かったですね」
少女は気まずそうな顔で私を出迎えた。
「いないのか?」
少女は「ええ、まあ」と言ってからソファを指差した。
「どうぞ、座っててください」
そのまま奥に消えてしまいそうな少女に、私は慌てて声をかけた。
「いや・・・成歩堂がいないなら出直して来よう」
「え、ダメですよお」
帰ろうとする私を、少女は追いすがって引き止めた。私の腕をつかんで見上げてくる顔には、いつもの明るい瞳が浮かんでいた。
「すぐ戻ってきますよ。大事な用なんでしょう?」
私はぎょっとして、一瞬身動きがとれなかった。少し少女から距離をとろうと身をよじりながら、私は虚空に向かって喋った。
「そんなことを・・・言っただろうか」
私は少女の顔から目をそらしていたが、彼女の瞳は大きく、ぱちぱちと瞬く音が私の耳にも届いた。
「いや、なんとなくですけど」
そう言うと、少女は私の腕を放してソファの座席をさっさと手で掃いた。
「お茶でも煎れてきます」
そしてそのまま部屋の奥へ引っ込んでいった。
私はしばらくその場に立ち尽くして、先ほど彼女の触れたソファを見ていたが、そのうち諦めて腰を落ち着けた。柔らかいソファの背に深く身を埋めると、普段は見ない天井が視界を占めた。
何とはなしに、先日メイと会った時のことが思い出された。実際問題、私は彼女に私の頭痛の原因について聞きに行ったわけではない。見当はついていた。だが私は、思い当たったその原因があまりにも風変わりなものだったので途方に暮れてしまっていた。せめてもう少し通りの良い理由をと適当な話しをでっち上げ、彼女をその”証人”にするつもりで行ったのだ。
(あれは多分、怒っていたんだな)
恐らく、そんな私の態度が気に食わなかったのだろう。メイは私が切り捨てた”真実”を引き合いに出してきた。そのおかげで、私はこうして最初に立ち返らねばならなくなっていた。
とは言え私は再三言うとおり”真実”の見当がついている。そしてその”真実”は私にとって「どうでもいい」どころの話ではない。むしろ―
そこまで考えて私は考えるのをやめた。背筋を冷たい汗が伝う感触がした。加えて頭が重い気がする。相変わらず視界いっぱいに広がる天井は、さっきよりもくすんで見えた。
「染みでも?」
という声に私は我に返った。目線を下げると、盆を持った少女が天井を見ていた。そして何もないと見ると私に目線を移した。
「何かあるのかと思いましたよ」
少女は笑うと、客用の湯呑みを私の前に置いた。
「考えごとを・・・」
「でしょうね」
少女は、私の湯呑みとちょうど対称の場所に自分の湯呑みを置くと、自分は私の向かいに座った。それから脇に置いてあった封筒をつかんで引っ張り寄せた。その中にはいくつか書類が入っており、少女はそれをテーブルの上に広げた。
「あ、向かいでやっててお邪魔じゃないですか?」
構わないと言うと、少女は下を向いて作業を始めた。
彼女の丸まった背中を見ながら、私はもう一度、注意深く自分の思考に潜っていった。
私に不都合な”真実”とは、なぜ緊張と頭痛が起こるのか、つまり私が成歩堂をどう思っているのかということである。
私の脳は再びそこから逃げ出そうとしたが、今度は呼吸を落ち着けてこらえた。
結論から言えば、その答えは理想からは正反対にある。”ごく希”で”普通ではない”答えだ。
私がそれに思い当たったのは、特に理由があるわけではない。ただふっと可能性のひとつとして浮かんできたそれを、遊び半分に考えていたらちょうどしっくりと当てはまったというそれだけのことだ。それもだんだん気味が悪くなって、「どうでもいい」ことにして考えるのをやめてしまったのだった。
私は”真実”を受け入れるべきだろうか。
前を見ると、少女はまだ作業に没頭していた。
「ところで・・・さっきから何をしているのだろう」
「え?あ、これですか?ハンコです」
少女はそう言って、鏡になるように「成歩堂」と彫られた判を私に向けた。
「ああ、成歩堂の代わりに・・・」
「ええ、まとめてこうして押すんです」
そう言って彼女はまた、タン、と判を押した。そこに浮かんだ赤い模様が乾くのを認めると、また次の紙に移っていった。
「また・・・聞いてもいいだろうか」
「なんですか?」
今度は顔を上げずに返事が返ってきた。
「そうだな・・・例えるのが難しいんだが・・・。例えば、キミがその内職をやっているときに、間違えて違う人間の押すべき場所に判子を押してしまったとする。やり直そうにも無数の記入欄をもう一度書き直さなければならない。当然成歩堂も怒るだろう。そんなとき、キミならどうする?」
少女は動きを止めて考え込んだが、またすぐに私を見た。
「だってそんなの黙ってたってすぐバレますよ。ごめんなさいするしかないです」
少女は不思議そうな顔で首を傾げた。
「そうか」
当然だろう。そして今の私は、その当然の答えを確かめる必要があった。私は目をつぶって今の答えを反芻した。
そんな私を見て、少女はまたぱちぱちと音を立てて瞬きをした。
「なにかやったんですか」
私は曖昧な笑みを作って、「いや」とだけ言うとソファから立ち上がった。
「今日は・・・やはり帰るとしよう」
「帰ってきませんでしたね。ごめんなさい、待たせちゃって」
すまなそうな顔をする少女に、私はもう一度「いや」と答えて成歩堂法律事務所をあとにした。
04
悩みはないではなかったが、私の頭の中を支配していたのはどちらかというとその正反対の感覚だった。
「なんだよ。幸せそうな顔して」
そう言われて、私はここが駅のホームだということを思い出した。言った男は隣に立って、私の顔を見ていた。
「そうか」
「どうしたのかな。なにかあったのかな」
男は何か含んだ笑いを浮かべながら聞いてきた。私は目をつぶって「別に」と言った。
「今時”別に”って、センスを疑うね」
私は肩をすくめた。男は少しの間私を見て、それから視線を前方に移した。
ホームから見える外の景色は薄暗く、街灯の明かりがやけに光って見えた。空は曇ってどんよりとした雲を抱え、はっきりとしない天気を見せていた。
私は所用に出かけて帰るところだったが、男とたまたま駅の前で会ったのでこうして電車を待ちながら並んで立っていた。
「遅いな」
男は電車が来るはずの方角を見て呟いた。独り言なのかどうかとっさに判断が付かず、私ははっきりとしない相づちを打って答えた。そこで会話が途切れたので、私は再びあたりに目を移した。
駅は閑散としていて、私たちのいるホームには他に乗客はいないようだった。普通なら帰宅のラッシュで混み合う時間だが、ここはそんなものとは無縁そうだった。その上まわりの建物もまばらで淋しい景色だった。
「淋しいとこだね」
男が言ったのを聞いて、思わず笑い声が口から漏れた。それに気がつくと男は不機嫌な顔をして、「何がおかしい」と詰め寄ってきた。私はまだ少しゆるんだままの顔を上げて男を見た。
「同じことを考えた」
男はそれを聞いても機嫌を直した様子はなく、「ふん」と言って目をそらした。私はその後頭部を見て苦笑した。
「あ・・・来た」
男の見た方を目で追うと、電車が減速しながらホームに入ってくるところだった。
男について電車に乗り込むと、ホームとは打って変わってかなり人が乗っていた。どうやらこんなに人の少ないのはこの駅だけのようだ。それでも何人かは降りていく人間がいたので、私たちは空いた座席に隣り合って座った。
ぐらりと揺れて電車は動いた。ゆっくりと速度を上げながら景色は流れていく。中途半端に混み合った車内は妙に暑苦しかったが、外の薄暗い景色と比べてみれば暖かいとも思えた。
「懐かしいな」
そう言った男の目は、自分の真後ろの窓を見ていた。
「前にも?」
「どうだったかな。よく似た別の線だったかもしれないし」
外はすっかり暗くなり、景色ははっきりしなかった。これでは乗ったことがあるかどうかもわからないだろうと思ったが、男は目を凝らして外を見ていた。それがなんだかおかしくて、また笑いがこみ上げてきた。男は窓から目を離して私を見たが、やはり不機嫌そうにしていた。
「なんなんだよいちいち。うるさいって」
「笑うぐらいいいだろう」
「なにがそんなにおかしいんだ。こっちはいつも通りだってのに」
暗に私が変だと言いたいのだろう。だがそのぐらいでは私は大して気にならなかった。
「機嫌がいいんだ」
「そう。それで幸せそうな顔をしてるわけ」
男は付き合いきれないという顔になった。
それきりどちらも話し出さなかった。だがその沈黙がずいぶん心地よくて、私はゆっくりと眠りに落ちた。
「おはよう」
その言葉に意識はいきなり浮かび上がった。私はまだ先ほどの座席に腰掛けたままだったが、電車は止まっていた。
そこは先ほどよりも淋しい駅で、駅舎のまわりに建物らしいものは何も見えなかった。真っ暗闇の中に駅舎だけがやたらに明るく、ぽつんと建っていた。
「どこだ」
「終点」
男は決まりが悪そうに頭をかいて言った。私が寝起きのぼんやりとした頭のまま男を睨むと、男は唇をとがらせた。
「寝過ごしたんだよ」
とっさに意味が分からず、私は目を離さずに「なんだ」とだけ言った。
「お前が寝たから、ぼくも寝たの。そしたらどこか知らない駅に着いてたってわけ。言っとくけど、ぼくだけ悪いって話なら聞かないからな。お前も同罪だからな」
男はそうまくし立てると目をそらした。私はゆっくりと上体を持ち上げ、そっぽを向いた男の方を見た。
「そんなことは言わん」
「あそ」
男はそっぽを向いたまま言った。
今度は私は外に目を移した。そこにはまさしく何もなかった。何もなかったが、仕事に忙殺されて旅行もままならない私には随分新鮮に見えた。
「次の電車は」
私が尋ねると男は腕時計を確かめようとした。だが付け忘れていたのか私の腕を引っ張って覗き込もうとしてきた。私が慌てて腕を男から離すと冷たい視線が飛んできたので、時計を外して男にわたした。
「十分ぐらいあと、この電車が折り返す。まだ待つのか」
男の出す情けないため息を聞きながら、私は座席から立ち上がった。
「なら、外を見に行かないか」
返事は、一拍ほど置いてから返ってきた。
「なんで」
「なんでと聞かれると困るが」
私は外を見て、また男を見た。
「こんな時間にこんな場所へ来ることなんかもうないだろう」
「そんな大したものが見られるとは思わないな」
男はあくまでも外へ行くつもりは無いようだった。私は仕方なく「わかった」と言って一人で外へ出た。
思った通り、景色はひどく寒々しかった。駅舎は古かったが由緒があるようなものではなく、あちこちが錆びたトタンで修復されていた。
外に出ても、見えるものはやはり黒く広がる空間だけだった。よくよく目を凝らすと、遠くに街灯とも民家ともつかない明かりも見えたが、ただ暗闇を強調するぐらいの役にしか立っていなかった。やはり、淋しい景色だと思った。
「淋しいとこだね」
突然後ろからした声に、私は思わずびくりとして振り向いた。そこには依然不機嫌な顔をした男が立っていた。
「なんだよ」
「来ないんじゃなかったのか」
「暇なんだよ!」
そう言うと男は私の隣に立った。男は遠くまで目を凝らして、あれは何かなとどこかを指差して見せた。私には見えなかったので、わからないと言うと男は難しそうな顔をした。
「やっぱり駄目だな。こんなとこで景色見て面白い?」
いぶかしがる男に、私は目を閉じて言った。
「それなりに」
「なんだそりゃ。おかしいんじゃないの」
男はそう言ったが、電車の中に戻っていく様子はなかった。
しばらく私たちは無言で突っ立っていた。
私が男に言ったのは、強がりや適当ではなかった。私は今日男と会ってから、ずっと幸福を感じ続けている。おかげで私は満たされ、安定した気分で今ここに立っていた。景色がいくら淋しくても、そんなことで私の気分は落ち込みようがなかった。
そこまで考えたところで私の上着の袖が引っ張られ、私は考えを中断した。
「星だ」
私はまさかと思った。今日は曇っていた。それにこれだけ開けた場所なのに、ずっと景色を見ていた私がそれに気付かないのはおかしい。そう思ったが、男がしきりに頭上を示すので私も顔を上げた。
すると、中天だけ雲が晴れ、せまいながらも明るい星空をのぞかせていた。
「・・・綺麗だな」
そう言うと、男はまあねと相づちを打った。それから少し控えめな声で話しかけてきた。
「思ったほど悪くないな」
そう言って男が笑った瞬間、私の頭を比較しようのない嬉しさが駆けめぐった。思わず私も微笑んで、この嬉しさをなんとか相手に伝えられないものかと思った。
つまり、ずいぶん使い古された言葉を使えば、私は恋をしていた。
するとホームにベルの音が響きわたった。男は慌てて電車を見た。
「急げ!」
私たちが無理矢理乗り込んだせいで発車は数秒遅れたが、おそらく大した問題はないだろうということで私と男は同意した。
05
「や」
「ああ」
私と男は往来で偶然会った。向こうは「この急いでるときに」という顔をしたが、私は構わず話しかけた。
「いい加減返してくれ」
「何、なんかあったっけ」
私が迫ると男は身を引いた。その目は空を泳いでいた。
「時計だ」
男は思いだしたように目を丸くしてから、顔を両手で覆って何やらうめいた。
「あれね。あんまり時間聞くから、お前が外して押しつけたやつね」
「そんなことを言うならもう時計は見せん」
「わ、悪かった悪かった。ありがとう。今出す」
男は慌てて自分の鞄を探りだした。
「汚い」
「わっ」
私の声に男は鞄を自分のかげに押し込んだ。
「勝手に見るなよ!」
「何を入れてたらそんな風になるんだ」
男は思いきり顔をしかめると、あたりを見回した。すると何かを見つけたらしく、すっと指を向けた。
「あそこで探そう」
男の指からまっすぐに視線をのばすと、そこは小さなコーヒーショップだった。
私はまたゆっくり男の顔まで目線を戻した。
「忙しいんじゃないのか」
「だってここで見つからなかったら事務所まで来るだろ、お前」
男は情けない声で言うと、くるりと体の向きをかえて歩き出した。私はその後ろを三歩遅れてついていった。
店内の客の入りは五分ほどで、立地のせいなのかスーツ姿のサラリーマンが殆どだった。前を歩いていた男は開いていた四人掛けテーブルの向こうに落ち着いた。それから鞄を膝にのせて、さっそく中を覗き込んでいた。おかげで私一人だけ注文を済ませて手持ちぶさたで座っていた。
男は一心に鞄を見ていた。まるで仕事中のように熱心なのがなんだかおかしかった。私は見つからないようにその顔をじっと眺めると、暖かい気分になりながら眠り込みそうになった。
「そういや、次はいつ起つの」
その声にはっと気付いた。男はまだ鞄を見ていたので私の視線には気付いてないようだった。
「まだ先だ」
私の言葉に、男は「そう」と素っ気なく答えた。私は変に思って男の顔を注意深く見た。男は唇をかみしめていた。
「・・・まだしばらくは居られる」
そう言いながらも男の顔が曇っていくので、私は焦りを感じた。どう考えても、男が気分を害しているのは私のせいのようだった。それは堪えられないほど辛いことだったが、私が何も言えないうちに男は言葉を続けた。
「次はいつ帰ってくる?」
私は一瞬逡巡したが、正直に答えることにした。
「わからない」
「それだよ!」
男はやっと鞄から顔を上げた。その顔はひどく不機嫌そうだった。
「勝手に行ったり帰ってきたりして、それで待てるか!」
男は説教するような口調で言い捨てた。
私は男の目を見返して、なるべく穏やかな言葉を選んだ。
「なら、どうしたら待ってくれるんだ」
男はじとっとした目で私を見ていたが、やがて口を開いた。
「連絡をしなさい」
私は男の顔を見て、それから「どんな」と返した。
「今どこにいる、いつ帰る、元気ですって、そういうことをだよ」
「それだけでいいのか」
すると男が目をつり上げて私を見てきたので、私は黙った。
「その”それだけ”が出来なかった人間にそんなことを言われたくないな」
「いや、だから・・・待っててくれるんだな?どんなに遠くても?どんなに長い間でも?」
「生きてるってわかったら待っててやるよ。ほんとに死んでるのに待ってたら馬鹿みたいだろうが。でもね、また置き手紙ひとつで消えるようなことがあったら、もう・・・」
「わかった、悪かった。・・・次の帰国は調べておく」
男は、それでいいんだと言ってから店員にコーヒーを注文した。
私は、窓の向こうを眺めて座っている男を見た。男は、少し微笑んでいるように見えた。
男は私を待っていてくれるらしい。そう思うと胸が締め付けられて、男を直視できなくなった。私はテーブルの上に腕を組んで体を沈ませた。
「本当は、もっと確かなことを言えたらと思っている」
男はちらと私を見て、また目をそらした。しかしもう一度私に目を向けてその口を開いた。
「例えばどんな」
「だから・・・必ず帰ってくる、とかいうようなことをだ」
すると成歩堂は、変なことを言うやつだと笑ってまた目をそらした。おかげで私はずいぶん惨めな気分になって黙り込んだ。
私はただ、男が一人で組んでいるその手をそっと握って、もうどこにも行かないと言ってやれたらと思った。だが、コーヒーショップで向かいの席に座った友人はそんなことを言ったりはしない。私の伸ばした指は人知れず行き場を失った。
もう一度顔を上げると、男は静かにコーヒーをすすっていた。私のことで喜んだり怒ったりする彼を、私はとても愛しいと思っていた。
私は男の向かいに居たが、ただ居ただけだった。それが悔しくてならなかった。
私は思わず苦しみで体を強ばらせたが、ふとそれとは違うことを思い出した。
「そうだ、時計は」
「え?」
男は引きつった笑いを浮かべてそう言った。
06
「いっつーなのね」
女はそう言ってにやりと笑ったが、私は一瞬返事が出来なかった。
「なんと言った?」
「一通よ。いっ・ぽう・つう・こう」
「・・・ああ」
ようやく意味は通ったが、私はかえって釈然としない気分になった。
「まあ確かにそうと言えばそうなんだが・・・そういう身も蓋もない言われ方をするとだな」
「うるさいわね。それよりさっさと続けなさい。私が聞いててあげると言ってるのよ」
そう言って女はどういう意味なのか両手を広げて微笑んだ。その仕草に私は思わず身を引いたが、この場から逃げるのは無理だろうということは分かっていた。
今日の私は、女に用があるわけではなかった。というのも、女は私の執務室に入ってくると前置きもなくこう切り出したのだった。
「わかったわ」
当然私は眉をひそめて聞き返した。「なにを」
「あなたの頭痛のお相手よ」
奇妙な日本語だと思ったが、その一方で私は動揺していた。とは言えこんなところで女を喜ばせることはないと、いつもの仏頂面を突き通した。
しかし真正面に立ち私を見下ろす女の顔は、すでに私の弱みを握りこんだと確信した顔だった。
「ふふふ。言っちゃおうかしら。本人に」
軽く頭痛がしてきたが、それは女の言うところの”頭痛の相手”とは全く無関係だった。
「馬鹿なことを言ってないで帰ったらどうだ」
私が言うと、女は目をむいてこちらを睨み付けた。
「子どもみたいに扱うのはやめて。あなたこそ何が”頭痛”なの、子どもみたいにこそこそ隠すのじゃないわ!」
「・・・・・・」
私は女の食らいつかんばかりの顔を見て、小さくため息をついた。
「・・・”わかった”んだな?」
「”わかった”のよ」
私は、今度は長く息を吐きながら椅子の背に身を預けた。
「なら別にいいだろう。私ももう受け入れてるんだ」
「それはいいけど、じゃあ成歩堂龍一は?」
私は思わず眉間にしわが寄るのを感じた。固く引き結ばれた口から声を出すのがひどく億劫に感じた。
「関係ないだろう。・・・もう仕事に戻ったらどうだ」
私は指でドアを指して見せたが、女は力一杯机を叩いて私を見た。
「都合のいい動物みたいに扱うのはやめて!人に相談しておいてその態度はないでしょう!私はあなたじゃないし、成歩堂龍一もあなたじゃない」
私は自分の指を見た。そして女はそんな私を威圧的な態度で見ていた。
「成歩堂には・・・言っていない」
すると女はにやりと笑った。
「いっつーなのね」
そこまで一通り思い起こすとなぜだか少し腹立だしい気分になったが、私は結局女の勧めるとおりに喋りだした。
「言わなくてもいいと思ったわけだ」
女は薄く笑った。
「楽しいんでしょう」
私は女を見た。そしてそのまま目線を動かさずにいると、女は小首を傾げて言い直した。
「楽しいんでしょう。片思いが」
私は、女の笑顔が何か含んだものではないかと訝ったが、彼女は普段あまり見せない素直そうな微笑みを浮かべていた。
「・・・どうかな」
苦笑しながら答えると、女は身を乗り出してきた。
「楽しくないの?なら言うしかないわね、成歩堂龍一に」
私は大きくゆがんだ口元を隠そうと手を当てた。そんな私を、女は穴の開くほど見ていた。
「怖いな」
私の声は大して響かなかったが、女にははっきり聞こえたようだ。
「そうね」
女の口調は軽かった。
「死ぬかもしれないものね」
私はまた苦く笑った。「大げさだ」
「あら、そうでもないわ。カマ掘られそうになって相手を殺してしまうなんて、そう珍しい話でもないもの」
下品だ、と言うと女は失礼と返した。
「でもね」
女は少し声のトーンを低くした。何かと見ると、その目は真剣な色を帯びていた。
「それが本当に、悩んで、苦しんで、その結果なら死んだって構わないの」
女の瞳はひどく強く見えた。私も負けじと、じっとその目を見ていた。
「違う?」
06
事務所を訪れると、男は笑って私を迎え入れた。
「何かあったのか?」
「え?や、別に」
それでも入り口で止まったままの私の背中を、男が軽く押した。私は訝って何度も振り向きながら応接用のソファに歩いていって腰掛けた。
男は私の脇に立って顔を覗き込んできた。
「今日の用は?」
相変わらず笑ったままのその顔に、私は少したじろいだ。
「それより・・・キミの方も何かあるんじゃないのか。その顔は」
男は少し考え込んでから口をへの字に曲げた。
「いや、お前からいけよ」
「いやだ」
男は泣き笑いのような顔をして「しょーがないなー」と言うと、机の上に置いてあったブリーフケースをつかんで中身を取り出して私に差しだした。
「ほら」
そう言われても最初はよく分からず、ゆっくりと近づいてようやく形がはっきりした。
「時計か」
「見つかった」
男の手から時計を取り上げて間近で見ると、それは確かに先日借した私の時計だった。目線を上げると、男はなぜか得意げな目で私を見ていた。
「威張るな。どこにあったのだ、結局」
「洗濯機の下」
「どうして人から借りた時計がそんなところで見つかるんだ」
男はまあまあと言いながら私の肩を叩いた。私はため息をついてその肩を落として腕を振り払った。
「もうしないか?」
「しないしない」
「二回も言うな」
「しない」
そう言う男の瞳を注意深く覗き込むと、何も考えていないのが明白だった。
「・・・まあ、いいか」
「なにがだよ。で、お前の用は?」
男は前のめりになって聞いた。私は一歩だけ後ろに下がってからソファをを指差した。
「まあ座れ」
「そんなことはいいんだよ。言えよ」
急かされて、私は小さく息を吸って落ち着いた声を作った。
「好きなんだ」
end
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