犬も食わんと



 「パパー、ちょっと買い物行ってきてくれない」
 成歩堂のその言葉を、御剣は顔をひきつらせながら聞いていた。
 「今、なんと言った?」
 「え?買い物行ってー・・・、て」
 御剣は今度は眉間にしわを寄せて成歩堂に詰め寄った。
 「その前、だ。その前」
 成歩堂は、何か言っただろうかと頭上に目線を泳がせた。目線はまっすぐ天井のすみをなぞっていたが、角までたどりついたところでようやく成歩堂は答えに至った。
 「・・・パパー」
 「それだ。なんなんだいきなり」
 御剣は明らかに不機嫌だった。もしここが往来のまっただ中ででもあったなら、こんなぐらいで済みはしなかっただろうが、ここはふたりの住む家の一角だった。
 成歩堂は大して気にとめた様子もなく、だってと言って御剣を見た。
 「いつもみぬきが呼んでるから」
 「みぬきが呼ぶのはいい。しかしキミに呼ばれるのは嫌だ」
 成歩堂は、思わずお預けを食らった犬のような表情になった。
 「なんで」
 「気色が悪い」
 今度は成歩堂が思いっきり顔をしかめる番だった。
 「随分な言い様じゃないか・・・。もっと他に言い方あるだろ」
 成歩堂は一歩も引かずに言い返したが、言われた御剣もまるで動じた様子はなかった。ゆっくりと空気は険悪な色を帯び、ふたりの影から暗雲が立ちこめてくるようだった。
 「パパたち、落ち着いて」
 ふたりは同時に振り向いた。落ち着いているもののどこか幼いその声は、ふたりの後ろに立った愛娘のものだった。
 「まーたつまんないことでケンカするんだからー。そんなこと言うんなら、みぬき明日から御剣パパのこと”ママ”って呼ぶからね」
 そう言うと、みぬきはにっこりと微笑んだ。ふたりの引き起こす数多のケンカを収めてきた彼女にとって、うんざりするほど繰り返されてきた仲裁だった。
 しかし、みぬきが細めていた目を戻して御剣を見ると、そこには意に反して不機嫌な顔をしたままの御剣が立っていた。
 「何で私が”ママ”なんだ」
 「え・・・?」
 面食らったみぬきは成歩堂に目を移した。そこには、何がおかしいのかにやにや笑いを浮かべた父親が立っていた。みぬきにはよくわからなかったが、ふたりが男性である以上、ママと呼ぶことにはなにか何かからかうようなニュアンスが含まれて届くようだ。みぬきとしてはふたりの頭を冷やせるかぐらいに思っていたが、むしろそれは追い打ちをかけただけのようだった。
 「それは、えーと」「そりゃあ」
 慌てるみぬきの言葉を遮って、余計なことに成歩堂が口を挟んできた。
 「みぬきを預かったのはあくまでもぼくだからね。お前はあとから来たんだし」
 「あわわわわ、ひ、火に油を注ぐようなことを」
 御剣は目を閉じて成歩堂の言葉を聞いていたが、目を開くとひどく冷たい表情で言い放った。
 「ほう。確かに君はみぬきを扶養している。だが極端な話、君は経済的にこの生活を支えていると言えるだろうか。生活費の7割はいったいどこから出ていると思う?」
その言葉は成歩堂の急所をいくぶん深くえぐったようだが、成歩堂はきっとした目つきで御剣を見返した。
 「父親が家計の大黒柱って考えは古いんじゃない?主夫業をしようが一銭も稼がなかろうが父親は父親だ」
 「無論、そうだ」
 御剣は依然表情を崩さずに答えた。
 「だが問題は、みぬきがどう思うかだ」
 「え、え、え」
 みぬきは突然俎上に引っ張り上げられて慌てたが、御剣も成歩堂もそのことを気にした様子はなかった。
 「父親という言葉にも、いまだに古いイメージはこびりついている。経済的な面や職業もその一つだろう。みぬきにとって、そのイメージに反する方を父親と呼び、ふさわしい方を母と呼ぶのでは混乱を引き起こすだけだろう。君はみぬきにそんな苦労を背負い込ませる気か?」
 みぬきはひっそりと成歩堂の表情を伺った。その顔は最初と変わっていないように見えたが、二つの瞳は笑っていなかった。
 「ぼくがそのイメージにふさわしくない、って言いたいわけだ」
 「君がそう思うと言うならそうなんだろう」
 その場にいた他の誰にも見えなくとも、みぬきにはふたりの間を小さな雷が駆け抜けるのがしっかりと見えた。
 「も、もう、今のは冗談!ふたりとも、みぬきの大切なパパだよ!」
 ふたりの手をしっかりと握りしめたみぬきは、その手を繋がせて和解させることを試みた。しかし、手が触れあうよりも早く成歩堂が口を開いた。
 「で、みぬきはどっちが父親らしいと思うの」
 「え、えええ」
 「そうだ。どうか私たちのことは気にせず、自分の思ったとおりに答えてほしい」
 「そんなこと・・・言われても・・・」
 みぬきは頭を抱えた。どちらと答えて丸く収まるようなことはないだろう。お互いしっかりしているように見えて、結局はただの男だ。ケンカをしているときの精神年齢は著しく低い。
 なんにせよこちらをじっと見るふたりの目線が痛いかった。とりあえず何か答えて時間を稼がねばならない。
 「じ・・・」
 ひどく小さなみぬきのささやき声に、父親達は腰をかがめて聞き入った。
 「じゃんけん・・・」
 御剣と成歩堂は、一瞬きょとんとして見つめ合った。しかしそのさらに一瞬あとには、成歩堂が大声で「じゃーんけーん!」と構えた。
 合いの手を打つのは成歩堂だったが、御剣も一歩も引く気はないという面もちで成歩堂と向かい合っている。しかしお互いそこまで気合いを入れながらも、奇跡的なあいこの連続で試合は延びていた。みぬきはここぞとばかりに考えをめぐらせた。
 「勝った!」
 16回ほど繰り返したあいこの末に、成歩堂が高く腕を突き上げた。御剣は握りしめた拳を見てひどく嫌そうな顔をしていた。
 「そういうわけで・・・」「う・・・」
 成歩堂の言葉を遮るように、細くて高い呻きが聞こえた。御剣と成歩堂が慌てて振り向くと、そこには顔を両手で覆ったみぬきがいた。
 「う・・・うぅ・・・っう」
 ふたりは弾かれるようにみぬきのそばまで駆け寄って、その背中を交互に撫でた。ふたりは口々に大丈夫かとか、どうしたとか声をかけたが、みぬきは手を顔から離さず嗚咽を漏らしていた。
 いや、実は厳密に言うとそれは嗚咽ではなかった。みぬきは必死に笑いをこらえていた。特に何がおかしかったわけではないが、ウソ泣きをするとき人が抑えられない、反射行動のようなあの笑いが止まらなかった。
 しかし、後ろのふたりにそんなことを知る術はなく、顔から心配そうな色が消えずにいた。
 「お、おまえのせいだー!」
 突然御剣を指差してそう言ったのは成歩堂だった。それに対して御剣は、半分切れかかりながれも穏やかに答えた。
 「黙れ」
 「やだ」
 「なら出ていけ」
 そのまま会話は軽快なテンポを保ちつつ紛糾した。
 一方でふたりは全く気付いていなかったが、みぬきの嗚咽もどきはすっかりやんでいた。いまだにその小さな体は震えていたが、それは今度は笑いではなく怒りのせいだった。
 (せっかく人が止めようとしたというのに)
 怒りというのは思考の袋小路だ。みぬきも、今やすっかり最大のボルテージを得られる場所で思考停止していた。
 (ケンカをして、結局後悔するのは自分たちだということを毎回忘れている)
 みぬきはすっかりへそを曲げて立ち上がった。そのおかげで、成歩堂と御剣はようやく自分たちが娘を心配していたのだと思い出した。
 「あの・・・みぬき」
 「もういい!」
 みぬきは拳を握りしめて叫んだ。
 「もうこれから、どっちもママって呼んでやる!」
 ふたりはさっと青ざめた。こればかりは自分たちの保身のためではなく、愛娘が本当に気分を害していると理解したからだった。結局のところ、男親は娘に弱いのだ。
 「悪かった。・・・もう言い争いはしない。すまなかった」
 御剣は穏やかな口調で言いながら、小さなみぬきの肩を抱き寄せた。成歩堂は向かいからみぬきの頭を撫でた。しかしみぬきは鋭い目で床を睨み付けていた。
 「嘘つき」
 その言葉にふたりは顔を見合わせたが、みぬきに目を戻した成歩堂が口を開いた。ひどく穏やかな口調で、優しい声だった。
 「うん。嘘だよ」
 みぬきはぎくりとした。それでも動揺を押し隠して、身動きせずに聞いていた。
 「それはまあ、結局それを破ることになるだろうと思うから、嘘だと言うんだけどね。でも、ほんとは言葉に嘘も真実もないんだ。そのときその言葉を言って何が起こるか、それだけなんだ」
 みぬきは下を向いていたが、成歩堂はみぬきの目をしっかりと見ていた。
 「それで、どうしてぼくらが守れないことを言うのかっていうと、みぬきに怒るのをやめてほしいからなんだ。みぬきは笑ってたほうが可愛いから」
 みぬきは大きく唇をゆがめた。
 「嘘つき」
 「そうかもね。でも、みぬきが泣かないですむんなら、そのままどんな嘘でもほんとでも言うよ。ほら、外出てアイス買いにいこう」
 みぬきはすっと顔を上げた。大粒の瞳には水滴がたまっていた。
 「ひどい」
 声はかすれていてひどく聞き取り難かったが、成歩堂も御剣もまじめな顔で聞いていた。
 「パパとパパが、いつかバラバラに、別れてどっか行っちゃうんじゃないかって、不安なの。だからケンカなんかしないでほしいって思ってるのに、ひどい、いつもしないって言ってするんだから、ひどい」
 みぬきはいつの間にかしゃくり上げていた。成歩堂は笑って娘の肩を叩いた。
 「ケンカしたぐらいで別れるんなら、もうとっくに終わってるね。そしたらみぬきのパパはひとりだった」
 「ひとりだったらこんなに悲しくなかった。こんなことで悩まなかったのに」
 そう言ったみぬきの目から、一粒涙が頬を伝っていった。それを、成歩堂とは別の手が横から拭った。みぬきが慌てて振り向くと、そこには柔らかく微笑んだ御剣がいた。その顔を見てみぬきはそれ以上なにも言えなくなった。
 「いっつもいいとこ持っていく」横から成歩堂が毒づいた。
 御剣はみぬきにハンカチを渡して顔を拭くように言った。それから綺麗になった顔を見て、みぬきの手を引いた。
 「アイスを買いに行くか」
 みぬきは赤い目をしたまま頷いた。しかしそのまま振り向いて、空いている方の手で成歩堂の腕をつかんだ。
 「なに?」
 「一緒に行くの」
 成歩堂は軽く頬をひきつらせた。
 「えー、だって目立つよ」
 すると、みぬきはやけに力の入った恐ろしい笑顔を見せた。
 「それなら別に、パパがひとりでも構わなかったな。御剣パパひとりで」
 成歩堂はますます頬をひきつらせながら、「しかたがないな」とひとりごちた。御剣は隣で声もなく笑っていた。
 玄関で三人並んで手をつなぎ、真ん中のみぬきはにんまりと笑顔を見せた。親たちは目線を合わせてなにかの合図を相手と交わしたが、結局何でもない顔をして向き直った。
 「ちっちゃかった頃を思い出すな」
 それが彼女が元の両親といた頃のことを言うのか、それともこの両親のもとへやってきた以降のことを言っているのかは分からなかったが、成歩堂は「まあね」と適当な相づちを打った。
 「じゃあ行こうか、パパ」
 成歩堂が言うと御剣は顔を強ばらせたが、何も言わずにドアを開いた。

※ ※

 「それで、幸せに暮らしました・・・っていうわけ?」
 一部始終を聞き終わった王泥喜がうんざりしたような顔で言うと、みぬきは笑顔でふるふると首を振った。
 「結局あのあと何度もケンカしましたしね。それで一番大きなのをしたあと別居です」
 「それは・・・」
 それを聞いても、王泥喜が話に興味を持った様子はなかった。ひょっとしたらそれは、知人が同姓と養子とで家族生活を送っていたなどという話を聞かされたときに人が示す反応としては一般的なものだったのかもしれないが、いかんせんその場にいた人間のどちらも今この状況以外にそんなケースは知らなかった。
 「大変だね」
 「まったくです」
 みぬきは唇をとがらせた。
 「ふざけてますねえ、あの嘘つきのひと。あっさり出てかれてやがんの」
 その言葉に、王泥喜は厳かに頷いた。
 「永遠はないからね」
 「悟ってますねえ」
 そう言ってみぬきはからからと笑った。そして立ち上がると、脇で眠っていた成歩堂の頭を丸めた新聞紙で勢いよく叩いた。






end


初出(ブログ掲載)
07/09/13




emanon  since:07/04/06/fri  後(usiro)