MEMORIES



2001.07
 頭がくらくらするのは、さっきから照りつける盛夏の日差しのせいだ。
 遠くではセミが鳴いている。遠くというのは、もうずいぶん木立からは離れたところに来てしまったからだ。まわりは自分の腰まで伸びた雑草に覆われ、見渡す限り緑だった。
 「成歩堂」
 試しに声を出してみるが、それに返事が返ってくる気配はなかった。
 もう一度ぐるりとあたりを見回したが、人影はひとつもない。たしかに、ここにいるのは自分だけなのだ。
 そう思うと足は止まり、御剣は風の凪いだ草原で途方に暮れて立ち尽くした。
 青くのびた草以外にまわりにあるのは名もないような茂みばかりで、花といったらタチアオイの紫が点々とあるだけだ。空気に混じった草の匂いは確かに夏の風情を含んでいたが、うんざりするほどかがされている中では暑苦しさが増すだけだった。もちろん木は一本もなく、日陰らしいものはまるでなかった。
 日差しは容赦なく体力と気力を奪っていく。こんなところでじっとしていてはどうなってしまうかわからない。
 「矢張ー!」
 期待したわけではなかったが、その呼び声に返答はなかった。どうやら無責任な案内人は御剣が目を離した隙に先へ行ってしまったらしい。そうなったらもう帰ってしまっても構わないとも思ったが、あいにく今日はそうはいかなかった。
 道がわからないのだ。
 というのも、今日は矢張が成歩堂と御剣を案内すると言って連れ出したのだ。
 何をしに行くのか聞いたような気もしたが、全員理由はどうでもいいと思っていた。ただ、持て余した時間を三人で過ごしていられれば文句はなかったのだ。
 とはいえ、それでも矢張が道案内をすると聞いて不安に思わないでもなかった。成歩堂に聞いたら自分も知らないのだと言う。苦労して矢張からだいたいの場所を聞きだしたときも嫌な予感がした。自分たちの学区から離れている上に、半ば山に入っているせいで本人もはっきりとは説明が出来ないのだ。
 それでも、矢張も成歩堂も乗り気だったせいで、最後には御剣もそれでもいいかと思ってしまった。結局のところ遊ぶ口実があれば何でも使っていたのだ。
 何より、そのとき成歩堂がふともらした「冒険」という言葉に心が動いた。矢張はそれを笑ったし、自分も反応した素振りは見せなかったが、それを聞いて悪くないと思った。実のところ、矢張もそうだったのじゃないかと思う。
しかし、そんなことでアレを信用してはいけなかったのだ。
 御剣が生い茂る草に足を取られている隙に、ふたりはすでに先へ行ってしまっていた。
 こうして見通しのいい場所まで出てきたが、それでも見つかる気配のないところを見ると、ひょっとして途中で道を間違えたのかもしれない。
 空には雲一つない。相変わらず太陽がその中央に座して、いつまでも強烈な光線を浴びせてくる。あんまり強い光のせいで、目に見える物全てが白く照り返して目に痛かった。
 口の中が乾いて不快感ばかりがまといついてくる。
 頭が重くなる。
 「熱中症」という言葉が頭に響いた。
 もうすでに体を動かす気力も萎えて、その場にしゃがみ込んだ。そうすると雑草が頭よりも高くなり、御剣の姿は隠れてしまった。
 耳の奥からキインと高い音が鳴り、日差しと一緒に考える力を奪っていった。
 キインと音がする。
 キインと音がする。
 御剣、と声がした。
 「御剣!」
 御剣ははっとして顔を上げた。そのとたんガンガンと頭が痛んだ。
 それでも顔をしかめながら前を見ると、目の前にあったのは成歩堂の顔だった。
 草をかき分けて身を乗り出してきた成歩堂は、御剣の顔を見て慌てたようだった。
 「だ、大丈夫か?」
 御剣が何も言わないでいると成歩堂はますますうろたえたが、実のところ御剣はだいぶ落ち着いていた。なぜかはわからないが、ようやく知った顔を見つけて落ち着いたのかもしれない。頭痛も耳鳴りも、いつの間にかなりを潜めていた。
 御剣が危なっかしく立ち上がると、成歩堂はもう一度「大丈夫か」と声をかけてきた。今度はなんとか「大丈夫だ」と言ったが、すぐに前のめりに転びそうになった。成歩堂は御剣の腕をつかんで支えてきた。
 「落ち着けって」
 すぐに大したことはないと言おうと思ったが、のどが乾いていてすぐには声が出なかった。成歩堂が腕を握ってくる手に力がこもった。
 「もうすぐなんだけど」
 なにが、と言いそうになったが、すぐに目的地のことなのだと気がついた。
 「休んだ方がいいんじゃない?」
 「・・・いや」
 御剣は空を見た。とても真上は直視できない。
 「とにかく、日陰のあるところに行きたい」
 「ああ」
 そう言うと、成歩堂は御剣の手をつかんだ。
 「熱いね」
 「・・・そうか」
 するとそのまま御剣を引っ張って歩き出した。成歩堂の手は汗ばんでいたが、御剣の手よりは温度が低くて気分が良くなった。
 成歩堂は御剣の手をしっかりと握りしめていた。
 そういえば、普段はこんな風にすることなんてないな、と御剣は思った。ひょっとすると初めてなのかもしれない。
 しばらくはふたりとも黙っていたので、あたりは草のこすれるガサガサという音ばかりが聞こえていた。
 遠くで知らない鳥の鳴き声がした。
 「結局、何だったんだ、矢張の目的地は」
 「ゴミ捨て場」
 「なに?」
 すると成歩堂が振り向いた。
 「ゴミ捨て場だよ。粗大ゴミとか車とか、山ほど積んであるんだ」
 「それは・・・」
 なるほど矢張が気に入りそうだ。しかし、目の前の成歩堂は何か不満があるようだった。
 「考えても見ろよ。それだけゴミがあるってことはさ、ゴミを捨てに来る車が通るちゃんとした道があるんだよ。こんな獣道通って来る必要なんてないんだよ」
 「・・・まあな」
 そうこうするうちに、だんだんと視界が開けて地形が変わりだした。
 「ここ。ほら、矢張がいる」
 そう言うと、成歩堂は谷間へ走り出そうとして手を離した。さっきまで手を握っていた感触が消え失せていく。
 瞬間、御剣は思わず手を伸ばした。すると成歩堂は立ち止まって御剣を見た。
 「ああ、ごめん」
 成歩堂は駆け足に戻ってきて、そのまま御剣の手をとった。
 「一緒にいこうか」
 



2001.07
 今日はやたらと人が多い。
 裁判が多いのか、何か知名度の高い事件の公判でもあるのか、なんにせよ裁判所の中は普段無いほど騒がしかった。
 廊下をまっすぐ進むのにも、人をよけながらジグザグに行くしかない。当然よけきれずにぶつかって頭を下げるのも一度や二度ではない。
 ところでなんでわざわざ謝罪をしなければならないのだろう。ぶつかるのは大抵お互いがよけきれないという偶発的な、いわば事故だというのに、なぜさも自分が悪いかのように謝るのか。こちらだけでなく向こうも同時に頭を下げたときの、あのやっつけ気味な「すいません」のひとことを言うくらいなら、なにかもっと効率のよいコミュニケーションがあるのではないか。
 成歩堂はそう思いつつもぶつかった相手に「すいません」と短く言った。
 「失礼」
 なるほど、そういう答えもある、と思って成歩堂は顔を上げて固まった。
 「あれえ」
 「ム・・・キミか」
 目の前に立っていたのは、先日成歩堂が無罪にした依頼人その人だった。
 「釈放おめでとう」
 「他に言い方はないのか?」
 「いやあ」
 成歩堂は苦笑いをした。「なにしろ無罪にしたのは、ほら、ぼくだから」
 そこで笑いが返ってくるのを期待したのだが、御剣がクスリともしないのを見て成歩堂は短く咳をした。「それにしても」
 成歩堂はあたりを見回す仕草をした。
 「やたら人が多いね。どうしたの?」
 「知らないのか?・・・新聞を読みたまえ、キミは」
 やはり何か有名な事件らしいが、心底あきれたようなその口調にそれ以上聞く気が失せて、成歩堂はわざとらしく時計を見た。
 「そろそろ行くよ」
 「そうしたまえ。仕事があるだろう、仕事が」
 そう言うと御剣は背を向けて離れていった。相変わらずの人混みなので、歩く人々の流れに乗ってあっと言う間に見えなくなってしまった。
 それでも成歩堂はしばらくその場にじっと立っていた。御剣の姿はもうどこにも見つけられなかったが、自分と御剣の間に距離が開いていく感覚がはっきりとあった。それは、まるで光が消えていくように感じられた。
 「ふう」
 成歩堂はため息をついた。
 離れていく間隔が完全にのびきってしまったところで、ようやくきびすを返して外に出た。
 空は絵に描いたような曇り空だった。
 裁判所の周りも群衆が色めいていて、どうにも居心地の悪さを感じさせた。足早に離れようとしたが、そこでもやはり人の壁にぶつかった。
 「すいません」
 声をあげてもあまり聞き届けられてはいないようだ。
 「すいません!」
 何で謝っているんだろうな、と思いながら成歩堂は這々の体でその群衆の波を抜け出した。さっさと行ってしまおうと思ったが、後ろで聞いたことのある声がしたような気がして振り向いた。
 しかしそこには見も知らない人々がひしめき合っているだけだった。
 それを見て、成歩堂はふと淋しくなった。
 こんなにたくさんの人がこの世の中には居るが、そのなかに自分の知った人間は居ないのだ。何かの拍子にその他人と出会うこともあるが、たいていは他人は一生他人のままだ。それだけこの世には人があふれている。
そう思うと何だかまるで、世界にたった一人で居るような気分になった。
 「成歩堂!」
 「わっ」
 突然後ろからかけられた声に、成歩堂は思わず飛び退いた。
 「わ」
 すると声をかけてきた本人も驚いた声をあげたが、すぐに持ち直してきりっとした口調に戻った。
 「落ち着け!」
 「あ?あ、み、御剣。なんで?」
 声の正体は御剣怜侍だった。眉間にしわを寄せたままこちらを見ている。
 「さっきも呼んだ」
 「あ、あれほんとに呼ばれてたんだ」
 成歩堂が言うと、御剣は馬鹿に重々しく頷いた。
 「どうしたんだよ。さっき別れたとこじゃないか」
 「いや、それが」
 御剣は、顔色を変えずに続けた。「キミが人混みに押されて困っているのが見物だったので、こう、声をかけたわけだ」
 「・・・迷惑だよ」
 「そうか」
 御剣がそこで言葉を切ったので、いちど会話が途切れた。御剣はちら、と成歩堂を見て「では」と言った。
 「また」
 「でもさあ・・・」
 成歩堂の声に御剣は足を止めた。
 「こういう時って、また会っちゃうんだよね、気まずいことに」
 「まあ、そういうこともあるな」
 「なんども”さようなら”なんてアホらしいよね」
 「そうは言ってもしょうがないだろう」
 御剣は言いながら一歩下がった。
 「・・・仕事だからって言うんだろう」
 「まあそうだ」
 そうしていよいよ御剣は背を向けようとした。その瞬間、成歩堂には消えていく光が目に見えた気がした。
 すると思わず手が伸びて、歩こうとふった相手の手のひらをつかんだ。
 手は一瞬強ばったが、すぐに力を抜いてされるがままにしていた。
 御剣はこちらを見ているようだったが、成歩堂は手だけを見ていたので御剣の表情はわからなかった。
 ―思ったよりやわらかいな。
 成歩堂はそのまま目の前の大きな手のひらの上に自分の手を重ね、ゆっくりと撫でた。
 「な、なんだ?」
 御剣はうろたえているようだった。それもそうだろう、と成歩堂は顔を上げた。
 目の前の御剣の顔は当然のように困った色を浮かべていた。
 少し、おかしくなって頬がゆるんだ。
 「授業と仕事はさ、サボるもんだろ」
 すると御剣は幾分眉をつり上げて成歩堂を見た。すると、成歩堂の手の中にある御剣の手に力がこもり、ふりほどこうとした。まあ駄目もとだ、と成歩堂はゆっくりと手を離した。間に見えない糸のような物がのびていく感じがして思わずお互いの手を見たが、そんなものは見えはしなかった。
 すると御剣は解放された手首についていた腕時計を見た。
 「しかたないな」
 成歩堂は顔を上げて御剣を見た。
 「三十分だ」
 とたんに力が抜けて頭をかいた。
 「・・・ケチだなあ」
 成歩堂は笑って、また目の前の手に触れた。



2018.03
 道には明かりが灯っていたが、両脇にずらりと並ぶ閉じたシャッターのせいで真っ暗闇にいるよりも淋しい景色だった。
 アーケードの天井には明かり取りの窓がついていたが、そこから見上げる空は灰色だった。
 「おなかが空きました」
 成歩堂はぽつりと呟いた。するとどうやら連れはそのセリフが気に入らなかったらしい。
 「わかってる」と言う声はいかにも不機嫌そうだった。
 成歩堂は低くうなると、ぐるりと回りを見渡した。そこには一件の店も開いてはいない上に、人といえば隣に立つ御剣だけだった。
 空腹なのはふたりとも同じだった。この遅い時間に食事をとる店を探そうと商店街まで足を伸ばしたものの、この時間では単なる足労で終わったところだった。
 「おなかが空いたんだよ!」
 成歩堂は、今度こそ御剣が腹を立てるかと思ったが、御剣はそろそろ扱いになれてきたのかひとりで出口に向かって歩き出していた。
 「ま、待てよ」
 慌てて追いかけると御剣は口だけ不機嫌そうに曲げて「今年でいくつになるんだったか」と言った。
 「うるさいな。大きなお世話だよ」
 「なんでもいいから叫ぶな。頼むから」
 ぐうの音も出なくなった成歩堂を見て、御剣はまたゆっくりと歩き出した。
 音を遮るもののないアーケードの中で、御剣のスタッカートの効いた足音はやけに響いた。成歩堂は音を立てずに、わざと歩調を合わせて歩いて遊んだ。御剣が立ち止まると成歩堂も立ち止まり、御剣が振り向くとわざと視線を逸らした。
 実のところ成歩堂は泥のように疲れており、食事に行くのも気だるかった。それでも今こうして彼の誘いに乗ってとぼとぼとあとをついて行っているのにはわけがある。
 ―好きだからね。
 そんなわけで、小さな路地を曲がる御剣のあとを、やはり音もなく成歩堂はついていった。
 「このあたりは閉店時間が早い」
 「でもやってるとこ、あるんだろ」
 御剣は何も言わずに、一軒の店先のシャッターを睨み付けていた。成歩堂もつられて眺めた。そこには白い紙に明朝体の文字が印字されていた。
 「お詫び」
 成歩堂は口に出して読み上げた。
 「先日の食中毒発生の際、みなさまに多大なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。つきましては、当店は本日を持って閉店とさせていただきます。長い間のご愛顧、まことに感謝いたします」
御剣は依然張り紙を見つめたまま動かず、この場に重い沈黙が満ちた。
 「・・・どうすんの?」
 御剣は黙って頭をかいていた。しかたないな、と成歩堂は息をついた。
 「ほら」
 そう言って成歩堂は御剣の上着のすそをつかんだ。
 そのままひっぱるように歩き出すと、御剣も顔を上げてきた。
 「うちんち、近いから」
 「それで」
 成歩堂はまた深く息を吐いた。
 「なんかあるだろ、食べ物ぐらい・・・」
 御剣は少し考え込んだが、「ああ」と返事をした。歩き出すぼくに、御剣は黙って着いてきた。
 近いとは言ったが、実際歩いてみると距離は随分あった。何か言われるかな、と思ったが御剣はやはり何も言わなかった。
 いつもより固く感じた鍵をまわすと、真っ暗な部屋が顔を出した。身を乗り出してスイッチをつけて靴を脱ぐ。ふと振り向くと、所在なさげに御剣が立っていた。
 「寒いから」
 「ム・・・」
 シツレイ、と言って御剣は上がり込んだ。
 成歩堂は床に置いたままだった新聞の束を足で動かして、御剣が通れるぐらいの隙間を空けた。そのまま黙って奥の部屋へ歩く御剣の背中を見ていると、御剣は音もなくそこに座り込んだ。
 「・・・あー、なんか飲む?」
 「いや、おかまいなく」
 と上げられた御剣の顔は、白い蛍光灯の光のせいか少し疲れて見えた。
 「律儀だねえ。じゃお言葉に甘えまして」
 そこまで言ってしまうと、いよいよ空腹は耐え難くなり成歩堂は作業を開始した。
 冷蔵庫を開けて中を確認すると、卵としなびかけたニンジン、半かけらのタマネギだけが見つかった。それに冷凍庫の白飯がある。
 「チャーハンでいい?」
 そう声をかけると、御剣は答える代わりに「手伝うか」と言った。
 「いやあ・・・、そんなチャーハンぐらいでさ」
 「そうか」
 それきり御剣は静かになったので、成歩堂は改めてまな板に向かった。
 表面の乾いたニンジンの皮を厚く剥いて、細かく切れ目を刻み込んでいく。切り終わった具を皿に除けているとき、成歩堂はふと気がついた。
 御剣がさっきからこっちを見ている。
 気付いたとたん、首筋の温度が上がり、嫌な汗が背中に浮かんだ。おまけに妙に焦って一瞬包丁を取り落としそうになった。とはいえ、そんなことで驚いて見せるわけにはいかないので、素知らぬ顔でタマネギをつかんでまな板にのせた。
 とんとんと音を立てて刻むと、御剣のいる方から、ぎし、と音がした。視線をずらしたのだろうかと、成歩堂は包丁を握ったまま振り向いた。
 するとちょうど立ち上がった格好の御剣と目が合った。
 「わ」
 また汗が噴き出した。慌ててまな板に向き直ると、包丁のことを忘れて手を切った。
 「痛って」
 声は小さかったが、思わず落とした包丁からごすんと音がした。
 「・・・大丈夫か」
 慌てたのか、作りつけの食器棚に御剣の足が当たってまた音がした。それでも構わず御剣はすばやく成歩堂の隣までやってきて、その手を無理矢理引っ張った。じろじろと指の傷を見ると、露骨に顔をしかめた。
 「ただの切り傷ではないか」
 そうは言ったが、御剣はしばらく成歩堂の手を離さなかった。成歩堂はそれをどこか他人事のような気分で眺めていたが、その手の感触でたったひとつだけわかったことがあった。
 (あ、こいつもぼくが好きなんだ)



2019.04
 どうやら雨は止んだようだ。
 さっきまでうるさく窓を叩いていた雨音はやみ、表を自転車の通る音が聞こえてきた。
 「死ねっ」
 成歩堂の声と一緒に、壁に本が当たった音がした。
 「いいかっ、二度と、戻って、来るなっ」
 そのままものすごい勢いで扉が開くと、御剣は外まで追い立てられた。
 そして間髪を入れずに扉は閉まり、付け加えるように鍵をかけるガチャリという音がした。
 御剣は少しの間立ち尽くしていたが、やがて振り向かずに廊下を進んでいった。
 外に出ると、事務所を訪れたときよりは明るくなり、どこかで鳥が鳴いていた。建物に面した道路に車はおらず、濡れたアスファルトが雲間の日差しを照らし返していた。
 いつの間にかあちこちからは人が出てきて歩いている。夕暮れが近くなり、ちょうど買い物時間に当たったのだろう。あたりはいくらかにぎやかになってきた。
 そんななか御剣が「ふう」と息をつくと、さっきまで張りつめていた気がほどけて足が崩れ落ちそうになった。
 ―しかたない。
 縁が長ければケンカぐらい珍しい話でもない。少し頭を冷やすしかないだろう。
 それでも気になって少し離れて事務所の窓を見上げたが、下りたままのブラインドの向こうはとても伺えなかった。
 いつまでもこんなところで突っ立っているわけにはいかないが、久しぶりに帰ってきた土地でどこを訪れるべきかうまい考えは浮かばなかった。
 しかたなく商店街へ向かう人の流れに乗ってその場を離れた。
 のろのろとした歩調で道を進んでいるうちに雲はゆっくりと姿を消し、次第にやわらかなグラデーションを描いた空が視界を埋めていった。
 こんなに綺麗な空なのに、事務所のブラインドは下りたままなのだろうか。
 思わず御剣は振り返ったが、すでに事務所の建物は見えなくなっていた。
 仕方なくまた前に向かって歩き出したが、空はどんどん暗くなりぼんやりとした色に変わっていった。それが惜しくて上を見ながら歩いていると、どん、と体に衝撃がきた。
 驚いて下を向くと、びっくりした顔の子どもと目が合った。
 「ごめんなさあい」
 と言うと、その女の子は先を歩いていた母親の方へ走っていった。
 いつの間にかそこは商店街の中だった。人があふれて歩き難く、駅から帰宅しようとする流れと駅前のスーパーまで歩こうとする流れが入り乱れ、あたりはいささか混乱を呈していた。そんななかではどこにもいかずうろうろしているわけにもいかず、どちらへ向かって歩くか早く決めなければならない。
 それでも心が決まらず、御剣は後ろを振り返ってみたが、そこにあるのはただ人の群だけだった。
 小さくため息をつくと、今度は駅に向かって歩を進めた。
 ―帰ろう。
 今日はどうせ成歩堂は気分を治さないだろう。帰って明日にも出直したほうがいい。
 そうだ。無理に修復しようとしてこじれるのはごめんだ。
 そう考えながら進んでいると、また御剣を衝撃が襲った。
 見ると今度は御剣とそれほど体躯の変わらない男の背中だった。
 「死ねっ」
 突然響いてきたその声に御剣は体を固くした。声の主を探すと、目の前の男の向かいに立った若い女の声だった。
 女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままかすれた声で叫び続けている。当然あたりの人々は女をじろじろと見ていたが、彼女はそんなことを気にする余裕は持っていないようだった。
 「もう来んなあっ、バカあっ」
 最後にそれだけ言うと、女は野次馬の垣根を押しのけて行ってしまった。それを見て人々の通行は再会し、再び流れだした。
 それでも動かない目の前の男を見ると、背骨を抜かれたような間抜けな顔をして突っ立っていた。
 その横で、御剣はまだかろうじて見える女の背中を見ながら、なんだか女が可哀想に思えた。商店街がだんだんと混みだすなか、御剣はひとりきびすを返してもと来た道を引き返した。
 そこから事務所までの道はさっきよりも短い気がしたが、空はきちんと歩いただけ暗くなっていった。
 そうしてしばらく街灯に照らされた道をてくてく歩いていると、薄暗い路地を歩く成歩堂に会った。
 「や」
 と言うと成歩堂は露骨に口を曲げて見せた。
 「帰ればよかったのに」
 そう言った成歩堂の顔は人を小馬鹿にしているようだった。
 「気が変わったんだ」
 「そ」
 そう言って成歩堂は御剣の脇を抜けて歩いていった。御剣は振り向いて、離れていく背中をじっと見ていた。
 「すまなかった」
 ぽつりと響いた御剣の声に、成歩堂は足を止めた。そしてそのまま、成歩堂はきびすを返して猛然と走り寄ってきた。
 「すまなかったで済むか!?」
 成歩堂は御剣の襟首をつかもうとしたが、御剣はその手をつかんでかわした。
 「言わないって決めただろ!なんで言うんだ、なんで真宵ちゃんが知ってるんだ!」
 御剣は肩を押さえてなだめようとしたが、成歩堂の腕が逃げ出そうともがくのでかなわなかった。
 覗き込んだ成歩堂の目にははっきりと怒りが浮かんでいたが、御剣は静かな口調で話しかけた。
 「いつまでも黙っているわけにはいくまい」
 「だからってどうしたらいいんだよ!男の恋人が居るなんてばれて、これからどうやってけばいいんだよ!」
 御剣は握った手に力を込めた。成歩堂は離そうと暴れていたが、御剣はただ黙って手を握り続けた。
 そうして疲れたのか、力の抜けたところでそっと話しかけた。
 「どうもしなくていい。なんとかなる」
 それを聞いて顔を上げた成歩堂は、恨みがましい目で御剣を見ていた。硬直していた体は少しずつゆるんで次第にぐったりとしてきた。
 「どうしてこのままじゃいけないんだ・・・?」
 理不尽を訴えるようなその声は、聞くものの胸を押しつぶすような声だった。
 成歩堂は腕からすっかり力を抜いてたが、御剣はそのまま握りしめていた。
 「なんでわざわざ人に言わなきゃなんないだよ。・・・黙ってたって・・・いいじゃないか」
 成歩堂は目をそらして地面を見た。その肩が御剣には少し小さく見えた。
 「こわいか」
 一瞬の間のあと、小さな声が聞こえてきた。
 「こわいよ。・・・こわくないわけあるか?お前はこわくなくとも、・・・ぼくはこわいんだよ・・・」
 横から覗き込んだ成歩堂の顔は、固く唇を引き結んでいた。
 御剣はもう一度、成歩堂の手を握る力を強くした。
 「こわいさ」



2026.10
 王泥喜は、肌寒いのに気がついて腕を探った。
 「あれ?」
 てっきり腕に上着を掛けていたと思っていたのだが、どこかに忘れてきたのか見つからなかった。そういえば外に出てきたときにはすでに持っていなかった。
 最後に見たのはいつだっただろう。そう思っていると急にみぬきの笑顔が頭に浮かんだ。
たしか、事務所にいたときみぬきが上着を椅子にかけていた。すると―どうやらそのまま事務所に置いてきてしまったらしい。
 しかたなくもう一度事務所に戻ることにした。ずいぶん事務所から離れてしまったので、道のりを考えるとため息が出た。
 しばらく歩くと、ようやくいつものビルまでたどりついた。
 廊下を歩いて事務所のドアの見えるところまで来ると、みぬきが部屋を出てくるのが見えた。
 「あっ」
 「まだ居たの?」
 みぬきはドアに背をつけて王泥喜の方を向いた。きょとんとした顔のまま話しかけてくる。
 「こっちのセリフですよ。帰ったんじゃなかったんですか?ずいぶん前に」
 「忘れ物だよ」
 そう言って王泥喜はドアに近づいたが、みぬきはそこからどこうとしなかった。
 「忘れ物?オドロキさんらしいなー」
 「いいからどいてよ。開けられないじゃないか」
 するとみぬきはなぜか渋々といった顔で横へずれた。王泥喜は、もう一歩前に進んでドアノブを握った。しかし、手前に引くとガチャンと金属音と手応えが返ってきた。
 「え?」
 王泥喜は隣に立つみぬきの顔を見た。その複雑そうな表情からまた目をそらしてドアノブを見る。
 「あ、そうか」
 よくよく考えれば何のことはない。みぬきが部屋を出るとき鍵をかけたのだろう。王泥喜はみぬきに向かって手を伸ばした。
 「鍵貸してくれる?」
 すると、みぬきはますます複雑そうな顔をして王泥喜を見た。
 「ないです」
 「は?」
 「持ってないんです。みぬきは」
 王泥喜はみぬきの顔を穴の空くほど眺めて、それからまたノブに目を移した。
 「いやいや」
 そこでようやく王泥喜はドアノブから手を離して、体ごとみぬきの方に向けた。
 「だってさっき出てきてただろ、中から」
 「違いますよう。あれは開かないからガチャガチャやってたんです。入るとこだったんです」
 そう言えばそうだったかもしれない、と王泥喜は記憶を反芻した。みぬきは後ろ手に手を組んだ。
 「いつもはそこの植木鉢の下に置いてるんですけど」
 と言ってみぬきは植木鉢をつま先でつついた。
 「今日に限ってないんです。きっとパパが間違って持って帰っちゃったんですよ。ほんと、こまったヒト」
 そう言いながらみぬきは指をからませていた。彼女があまり長くそうしているので、王泥喜はそれがなぜだか気にかかった。
 「ひょっとして・・・」
 その言葉にみぬきはすっと顔を上げた。
 「みぬきちゃん、嘘ついてる?」
 「えっ」
 みぬきは後ろに下がろうとして背中を壁にどんとぶつけた。その一瞬にみぬきが目をそらしたのを、王泥喜は見逃さなかった。
 「ああ」
 みぬきの言動と合わせて考えれば、おおむね彼女が何を隠したがっているのか見当はつく。
 「自分でなくしたの?鍵」
 みぬきはまた素早く目をそらした。それはほんの小さな仕草だったが、王泥喜はそれで確信した。
 「駄目だよ。成歩堂さんのせいにしちゃ」
 「もっ、もう・・・帰ってください!オドロキさん!」
 そう言うと、みぬきは両腕で王泥喜を出口の方に押し出した。
 「え・・・って、オレの上着は?」
 「だって開かないんですよ。今日のところはあきらめてくださいよ」
 「そんな。だって外、寒いよ」
 みぬきは小首を傾げて王泥喜を見た。
 「凍死はしないでしょう。さ、帰る帰る」
 「お、おい・・・!」
 みぬきはぐいぐいと王泥喜を引っ張って、建物の外に出たところで「さようなら」と言って彼を送り出した。
 王泥喜が見えなくなると、みぬきは静かに事務所のドアの前まで戻った。
 するとみぬきは、腰のトピットからキーホルダーのついた小さな鍵を取り出して鍵穴にさした。ノブは小さな音を立てて解錠された。
 素早くドアを開けて部屋に入り込むと、ソファにふたり分の人影が浮かび上がった。みぬきがそのまま入り口横にある照明のスイッチをつけると、そこいるのはふたりの男性だというのがわかった。
 みぬきは彼らが腰掛けている向かいのソファに座ってふたりを眺めた。片方はニット帽にパーカー、もうひとりは赤いスーツに身を包んでいる。
 ふたりの男は眠っていた。その間には二十センチほどの隙間があったが、ふたりは固く手を結んでいた。
 ふたりの呼吸はひどく静かで、同じタイミングで胸が上下している。みぬきが施錠して外に出る前と何も変わっていない。
 もう少しそっとしておこうかとも思ったが、王泥喜に対応した自分にちょっとばかりご褒美があってもいいだろう。
 「こんなところ見られたらかっこわるいもんねー」
 みぬきはそう呟いて立ち上がった。
 「ほらあ、起きてよ。今日はご飯食べに連れてってくれるんでしょ!」
 すると、つながれていた手がぴくりと動いた。



end


初出(ブログ掲載)
2001.07-07/07/24
2017.01-07/07/25
2018.03-07/07/26
2019.04-07/07/28
2026.10-07/07/29




emanon  since:07/04/06/fri  後(usiro)