2026.10
王泥喜は、肌寒いのに気がついて腕を探った。
「あれ?」
てっきり腕に上着を掛けていたと思っていたのだが、どこかに忘れてきたのか見つからなかった。そういえば外に出てきたときにはすでに持っていなかった。
最後に見たのはいつだっただろう。そう思っていると急にみぬきの笑顔が頭に浮かんだ。
たしか、事務所にいたときみぬきが上着を椅子にかけていた。すると―どうやらそのまま事務所に置いてきてしまったらしい。
しかたなくもう一度事務所に戻ることにした。ずいぶん事務所から離れてしまったので、道のりを考えるとため息が出た。
しばらく歩くと、ようやくいつものビルまでたどりついた。
廊下を歩いて事務所のドアの見えるところまで来ると、みぬきが部屋を出てくるのが見えた。
「あっ」
「まだ居たの?」
みぬきはドアに背をつけて王泥喜の方を向いた。きょとんとした顔のまま話しかけてくる。
「こっちのセリフですよ。帰ったんじゃなかったんですか?ずいぶん前に」
「忘れ物だよ」
そう言って王泥喜はドアに近づいたが、みぬきはそこからどこうとしなかった。
「忘れ物?オドロキさんらしいなー」
「いいからどいてよ。開けられないじゃないか」
するとみぬきはなぜか渋々といった顔で横へずれた。王泥喜は、もう一歩前に進んでドアノブを握った。しかし、手前に引くとガチャンと金属音と手応えが返ってきた。
「え?」
王泥喜は隣に立つみぬきの顔を見た。その複雑そうな表情からまた目をそらしてドアノブを見る。
「あ、そうか」
よくよく考えれば何のことはない。みぬきが部屋を出るとき鍵をかけたのだろう。王泥喜はみぬきに向かって手を伸ばした。
「鍵貸してくれる?」
すると、みぬきはますます複雑そうな顔をして王泥喜を見た。
「ないです」
「は?」
「持ってないんです。みぬきは」
王泥喜はみぬきの顔を穴の空くほど眺めて、それからまたノブに目を移した。
「いやいや」
そこでようやく王泥喜はドアノブから手を離して、体ごとみぬきの方に向けた。
「だってさっき出てきてただろ、中から」
「違いますよう。あれは開かないからガチャガチャやってたんです。入るとこだったんです」
そう言えばそうだったかもしれない、と王泥喜は記憶を反芻した。みぬきは後ろ手に手を組んだ。
「いつもはそこの植木鉢の下に置いてるんですけど」
と言ってみぬきは植木鉢をつま先でつついた。
「今日に限ってないんです。きっとパパが間違って持って帰っちゃったんですよ。ほんと、こまったヒト」
そう言いながらみぬきは指をからませていた。彼女があまり長くそうしているので、王泥喜はそれがなぜだか気にかかった。
「ひょっとして・・・」
その言葉にみぬきはすっと顔を上げた。
「みぬきちゃん、嘘ついてる?」
「えっ」
みぬきは後ろに下がろうとして背中を壁にどんとぶつけた。その一瞬にみぬきが目をそらしたのを、王泥喜は見逃さなかった。
「ああ」
みぬきの言動と合わせて考えれば、おおむね彼女が何を隠したがっているのか見当はつく。
「自分でなくしたの?鍵」
みぬきはまた素早く目をそらした。それはほんの小さな仕草だったが、王泥喜はそれで確信した。
「駄目だよ。成歩堂さんのせいにしちゃ」
「もっ、もう・・・帰ってください!オドロキさん!」
そう言うと、みぬきは両腕で王泥喜を出口の方に押し出した。
「え・・・って、オレの上着は?」
「だって開かないんですよ。今日のところはあきらめてくださいよ」
「そんな。だって外、寒いよ」
みぬきは小首を傾げて王泥喜を見た。
「凍死はしないでしょう。さ、帰る帰る」
「お、おい・・・!」
みぬきはぐいぐいと王泥喜を引っ張って、建物の外に出たところで「さようなら」と言って彼を送り出した。
王泥喜が見えなくなると、みぬきは静かに事務所のドアの前まで戻った。
するとみぬきは、腰のトピットからキーホルダーのついた小さな鍵を取り出して鍵穴にさした。ノブは小さな音を立てて解錠された。
素早くドアを開けて部屋に入り込むと、ソファにふたり分の人影が浮かび上がった。みぬきがそのまま入り口横にある照明のスイッチをつけると、そこいるのはふたりの男性だというのがわかった。
みぬきは彼らが腰掛けている向かいのソファに座ってふたりを眺めた。片方はニット帽にパーカー、もうひとりは赤いスーツに身を包んでいる。
ふたりの男は眠っていた。その間には二十センチほどの隙間があったが、ふたりは固く手を結んでいた。
ふたりの呼吸はひどく静かで、同じタイミングで胸が上下している。みぬきが施錠して外に出る前と何も変わっていない。
もう少しそっとしておこうかとも思ったが、王泥喜に対応した自分にちょっとばかりご褒美があってもいいだろう。
「こんなところ見られたらかっこわるいもんねー」
みぬきはそう呟いて立ち上がった。
「ほらあ、起きてよ。今日はご飯食べに連れてってくれるんでしょ!」
すると、つながれていた手がぴくりと動いた。
end
初出(ブログ掲載)
2001.07-07/07/24
2017.01-07/07/25
2018.03-07/07/26
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2026.10-07/07/29